エリシアのおはなし


わたしは急いで道を歩いていました。
夜になると、いえ、夜にならなくてもこのまちは危ないのです。もう、昔のようにいられる時代ではなくなったということです。それはずっと前からそうだったのかもしれないし、つい最近の事かもしれません。
とにかく、このまちは良くない場所になってしまったのでした。まちだけでなく国そのものがおかしくなっているのです。わたしの二つ前の誕生日を過ぎた辺りから国のあちこちで小さな争い事が起き、とうとう戦争になってしまったのです。店も、学校も、広場もみんな閉じてしまっています。三日ごと食べるものが軍から配られる以外は、郊外の村やもっと遠くのまちに行かなければ何も手に入らず、大勢の人が田舎へ引っ越して行ってしまいました。
わたしは母さんとこのまちにとどまる事に決めています。軍人だった父さんはずっと前に死んでしまい、家には二人きりです。
軍にはまだ父さんの知り合いが何人もいて、かわるがわる様子を見に来てくれたり、配給品ではない、上等な菓子や砂糖をくれる時もありました。このがらんどうのまちで、なんとか暮らしていけるだけのたくわえもあります。それはとても幸せなことなのよと母さんは言いました。
母さんが好きなもの、もちろんわたしも好きなものたちは日に日に姿を消していきます。ポプラ並木のみち、広場の噴水、市場に並べられるみずみずしい野菜。明日は母さんの誕生日なのですが、わたしは何も用意が出来ていませんでした。プレゼント、ケーキ、一緒にお祝いをする愉快なお客さん。招待状を出そうにも、郵便屋さんはいません。何か特別な用事で無い限り、手紙を出すことすらいけないのです。
このまちになにもないことは分かっています。けどせめて、なにか母さんにふさわしいものがひとつでも見つからないかと思い、わたしは夕方家を出て市場へいったのでした。そこには支給されていないかつての上等なものが売られていて、もちろんとても高いのですが、たまには掘り出し物があったりします。さんざん探し回ったあげく、わたしはお茶の缶をひとつ見つけました。手持ちのお金を全部と、肩がけのショールを渡してやっと手に入れられたそれをたからもののように抱いて帰り道を急ぎました。

すっかり暗くなった細い道をくぐっていく途中でわたしは足を止めました。先にはとおせんぼをするように幾人もの人影があり、簡単には通してくれそうもないのでした。しかも、今日に限ってお金はお茶に使ってしまい、通してくださいとお願いすることも出来ないのです。ショールを渡してしまったせいですうすうする肩を家の壁に寄せ、うしろを向いて走り出したい気持ちをおさえながらわたしはじっと向かってくる何人もをにらみつけていました。ところが腕をつかまれそうになったとき、もう絶対に助からないと目をつむったとき。
不意に前を横切ったすばやい影が彼らに唸り声をあげました。おぼろげに光をこぼす月の下、明かりに照らされてその牙がとがっているのが良く見えます。
恐ろしげな形相をしたいぬは、男たちを追い払いました。合間に噛み付きさえしたのです。吠え声は低くかすれ、目はきらきらと光って見えました。

男たちがいなくなった後、いぬはゆっくりとふりかえりました。わたしをじっと見つめ、落ちたお茶の缶を鼻でこづいて見せ、慎重な足取りでもと来た道を帰っていきます。

「ありがとう」

しぜんにこぼれたお礼の言葉にもう一度ふりむき、いぬはじっとわたしを見つめていました。まるでときがとまったように何もせず、にらんでいます。怒っているようにも、困っているようにも見えます。
そして、言いました。

「おれは、絶対謝らないからね」

確かにそのいぬははっきりと、人間の言葉で言ったのです。