ニライ・カナイの国

 

 

この地方独特のむっとした空気が肺に入る。
照りつける日差しは容赦なく降り注ぎ、じりじりと肌を焼いていく。
暑い土地は苦手だった。
例えそれが湿気を含まない"快適なリゾート"であってもだ。
波に戯れる人々と自分は、まるで別次元のように隔たっている。


此処には私のように不快さに顔を顰める輩はいない。
犬を連れた老女がカゴを脇に抱え、のんびりと横を通り過ぎる。足下のアスファルトに白い砂が積もり、錆びた空き缶が音を立てて転がっていく。
私は胸元のネクタイを掴み、むしり取りたい衝動にかられた。
だが実際は、指がいつも通り形を整えただけだった。




色あせた安っぽいポスターが剥がれかけている。
楽園。
そんなものを求めて此処に辿り着いたと言うなら、それは随分甘ったるい幻想。
まして今、子供の夢や理想論を語り合う気分ではない。
会ってまず口に出す言葉が自然と辛辣になるのは目に見えていた。
対して返される憎まれ口も、幼い膨れ面も。
閉じた目の裏に浮かぶ目の色を覗き込もうとして、不意に思い出した。
最後に触れた手は子供らしく体温が高く、彼は元々温度の低い私の手をまじまじと見つめて無礼を言った。
血通ってないんじゃない、とか。そんな類の軽口を叩いたのだったと思う。
私の記憶が定かでないのは―――
触れた部分が燃えるように熱く感じられ、思わず引いてしまった悔しさだろう。
恐怖にも似たその感情は暫く内で燻り続けた。


「すみません」
海の傍にある売店は海水浴場から離れているせいか、閑散としていて他に客も居ない。店内は色とりどりの飾りや土産物が無秩序に放置されている。
奥から顔を見せた女の子が物珍しげに近づいてきた。
「人を待ってるんです。170前後の身長で髪を括った高校生、見ませんでしたか」
どうしても刑事口調が抜けない事に苦笑しつつ、彼の特徴を思い浮かべる。
「自転車を使っている筈です。後は………」
「それ、にいちゃんね」
「ご存知ですか?」
何でもないことのように頷いて、店の裏手に小走りに駆けていく。
付いていくと確かに見覚えのある自転車が青く塗られたトタンに立てかけてあった。
「さっきまで、いた」
きょろきょろと周囲を見渡し、小麦色に焼けた腕を振り回す。
「いんね。どしたんだろ」
振り返って笑うと白い歯が零れる。
快活で物怖じしない態度。何処か共通している。


「本島のひとね。トウキョウ?」
「ええ」
「にいちゃんもそうって」
彼女は木陰に腰を下ろし、白くすべすべした石を掴む。
「白いね。これみたいよ」
私の肌の事を言っているのだと悟るまで、少し時間がかかった。
「にいちゃん、もう、ここの人みたいの。おんなじよ」
腕を自慢げに叩き、笑う。
しかし次の瞬間真剣で悲しそうな光が目に宿る。
「帰らんよういっぱいお願いしてた」
幼い子にこんな顔をさせるのは、やがて訪れる別れに対する本能的な恐怖だ。

初めはどんな人間かと警戒する。
しかし次第に警戒は薄れ、まるで当然のように迎え入れる。
ずっと一緒に居たいと願う頃、何処かへ行ってしまうのだ。

「会いに行けますよ」
笑顔で応えつつ、冷たいものが腹に生まれる。それは心地よい冷たさでなく。
彼が此処に居ることは本当ではない、と思うのだった。無邪気な少女に対する奇妙な反感。
居るべき場所を他人が決めるなど愚かしい事だと言うのに。
涙をためた目が見上げてくる。
手を伸ばして触れた頬はやはり酷く熱かった。
それでも、あの時のような熱さでは。


「ああ、早速やってるよ………」
声が飛び込み、一瞬で場が騒々しくなる。
「沖縄くんだりまで来て、やるこたーナンパっすか明智警視」
「人を呼んでおいて随分な態度ですね金田一君」
「しかもいたいけな子供を………変態?」
「失礼なところも変わらない」
立ち上がって振り向くと、成る程。
少女に負けないくらい日焼けした彼が、笑顔でバケツをぶら下げている。




「すんげえ暑いだろー」
何故か自分の手柄のように反っくり返り、反応の薄い私に表情を正す。
「アレ?何か怒ってる?」
「ほう。心当たりがあるんですか」
「うーん、いろいろ」
悪びれもせず。
彼はバケツを地面に置くと、腕を入れて水に浸した。
「でも少しは日に当たった方がいいって。どうせ一日中クーラーの利いた部屋ン中で不健康に書類弄り回してんでしょ」
「そんな平穏無事な日など、数える程しかありませんよ」
私の仕事の実体を知っていてなお、この口を叩ける無遠慮さ。寧ろ感心する。
「まあまあ、大自然に触れてリフレッシュもイイもんだよ」
「そんな事より早く用件を言いなさい。君の事だからどうせまた何か面倒を起こしたのでしょうが」
「魂のついでに根性も洗濯したらいいと思う………」


陽の照りつける砂浜に長居などとんでもない。
走らせた車の窓から風が入り、生暖かい空気が掻き乱された。
「暑いのは嫌いなんです」
「知ってる」
文句は即答で返された。図太い神経だ。
「良い所じゃん?リゾートは反対側で静かだし」
「何故こんな所まで?」
「なりゆきで、なんとなく」
置かれた手が緩やかなリズムを刻んでいる。走り過ぎる光景に、付近の住民が集まっているのが見えた。
打楽器の音。ひらひらと舞う掌。しなやかに身体を動かして踊るのは80をとうに過ぎたような老人。
良く通る声が独特のイントネーションで歌う。
まるで異国のような。


「サトウキビ栽培と、小規模の観光。それがこの島の経済」
よく冷えた甘い液体がその喉に流し込まれた。
「最近外の人間が増えて、建設業者が資材をどんどん落としていく。土地買収も始まった。それがかなり強引なやり方で………」
「本当に余計な事に首を突っ込んでますね」
呆れ果てた。此処まで予想通りだと怒る気すら失せる。
「まあ聞けよ。俺がちょっと調べたところ」
「金田一君」
「以前にも似たような騒動を九州で起こしてる。裁判にまでもつれ込んだが、結局企業側の言い分が通って住民は全面敗訴だ」
正義の味方か?
「で、今回は自信つけたのかかなり乱暴で穴のある方法なんだ。ちょっとつつけば直ぐ」
「いい加減にしなさい」
展望レストランの客足は芳しくない。確かに眺めだけは一級品だがそれだけだ。
味気ないコーヒーで喉を湿らすと、妙に冷静な目の彼が呟いた。
「このままだと、人死にが出るだろうし」
馬鹿馬鹿しい事にその発言の根拠は勘だと言う。
確かに旅の間彼は成長したようだ。少々の言葉では動じないし考えを変えようともしない。頑固な程に。
厄介な。


帰る車中、彼はずっと静かにしていた。考え事は静かな方が捗る。
別に、出来ない訳ではない。
海を隔てているから何をしても大丈夫だという安心感を、ほんの少し揺さぶってやればいいのだろう。
恐らく電話を一つ。
「ちょっと、こっち」
ハンドル操作に難があってはと思ったらしく控えめな声。
大人しく従い、私は車を停めた。
彼はそのまま照りつける太陽の中に飛び出していく。
何故か持ち込んでいた空のバケツを持っていた。
何をするのかと見ていると、路上にむき出しで放置されている農業用の水道を捻り、バケツに水をため込んでいる。
そのまま一気に、頭から被った。
「暑い!」
呆れて物も言えない。用途は分かったが、びしょぬれのなりでシートに座るつもりだろうか?


「………乗せませんよ」
「要らない。歩いて帰るさ」
すぐそこだと指差す方向に、ぼんやりと歪んだ建物の影が見える。




帰る、だと?
まだ帰らないつもりなのか?




「じゃあな、頼んだぜ」
差しだされた手を掴み、無理矢理に引き寄せた。
弾みでガクンと落ち込む顎を押さえる。


彼は何処も彼処も水で濡れている。冷えた感触がした。


「君はそろそろ取引というものを覚えた方が良い」
「なっ………」
「要求だけの関係など有り得ませんよ」
忌々しい暑さを遮り、ガラスが水滴を弾く。
動けない様をいい気味だと笑う。アクセルを強く踏む。
用は済んだ。
そして私には楽園で長居をするつもりがない。




東京に戻るなり仕事の山がデスクを埋め尽くし、聞き覚えのある建設会社が連日ニュースの話題に上がっている。
彼の言うとおり人死には出なかった。
住民達は振り上げた拳を収め、大人しく日々の暮らしに戻っていったのだろう。


お届け物です、と言われる度部屋が狭くなる。
一つ一つ丁寧に由来が書かれ、礼の言葉が添えられたものたち。


そのうちの一つがえらく素っ気ない。走り書きのような汚い字。
大勢の感謝は要らないが。
一人には是非とも態度を改めて欲しいものだ。