外灯もまばらな薄暗い道の途中で立ち止まった。見つけたのは同時。
とっくに夕食を終え今は自由時間だった。明日の決勝に備えて、いつもは長い監督の説教も手短に終わり、早い連中は風呂に入って眠っている。
オレは元気。全然平気。
ツナはといえば、これが相当ぼろぼろになっていた。
痩せて一回りも小さくなってしまってる、と思った。
「遅れてごめん。でもすごいね、明日決勝とか……おかげで間に合った」
なにしてたんだよとか。
どうしたんだとか。
訊きたかったけどそんなのは吹き飛んだ。そんなのがどうでもよくなるぐらいツナは思い詰めた顔をして、疲れ切っていた。とても高校生のする顔じゃないぜって。軽口叩いたら多分弱々しく笑う。
そんなことさせたいんじゃないし。
「山本、ごめん」
ツナはもう一度謝った。
なんで謝るんだろう。なんで泣きそうなんだ?
なんで逃げるんだよ。
ツナは時々オレから一歩引くことがある。それが忌々しくて、いつも無理に掴んで引っ張りたいと思いながら手を離してた。誰だって嫌われたくないだろ、特に好きなやつからは。
そう思って今の今まで大事に友達やってきて、ここに来て、そのダチからも逃げられるってのは酷い。傷つく。
泣きたいのはオレで、お前じゃない。
オレはツナから視線を外して、正面に向き直った。
「何してんの?」
「わたしはただ」
「俺こいつずっと待ってんの。色々、積もる話もあるワケで、勝手に帰されっとすげぇ困る」
「ぁ…した、試合、じゃない。決勝よ? 疲れたらいけないと思って、別に」
「それお前の都合な。オレじゃないから」
やまもと、と小さく呼ぶ声がした。
首を振って宥めようとする眉の垂れた困った顔。これが見たくなくて我慢してきたんで、今じゃ結構限界だ。
ぐつぐつ煮立ってる脳みそを落ち着けるのにその手を掴んで、ぐっと引き寄せる。
やっと大人しくなった。
「ねえ、こんな夜に外出たら怒られるし、幾ら友達でもさ……取材とか、記者の人とかも、まだこの辺にいるかもしれないから。帰ろう? 今は試合の事考えた方がいいよ」
「考えてる。だから、いいんだ」
オレが野球やってけるのは、全部ツナのおかげだ。
バカな事考えて無茶して、危うく腕どころか頭カチ割れそうになった時、奇跡みたいに助けてくれた。
それ以来ずっと助けてくれてる。
「わたし、山本クンが心配で……だって!」
ぼろっとこぼれた水滴に隣に立つツナがぎょっとした顔を見せる。
女が泣くってのは、それだけで結構な衝撃があるらしい。世間的な意味で。
仕方がない。ツナは結構女に優しい。そりゃオレだって泣かせたりしたくないけど、優先順位ってものがある。
「なあ、話したら直ぐ済むからさ。戻ってろよ」
「……うん」
「オレちょっと出てくるから、聞かれたらコンビニ行ったって、監督に言っといて」
――多分あの子は山本が好きなんだろうな。
ぼんやりと澱んだ思考で思う。
メールして、飛行機が着いてから直行で宿の近くまで来た。
待ち合わせた時間より少し早めに来てしまった所、旅館から出てきた彼女とばったり鉢合わせ。
話しかけてきてくれたけど、明日決勝って事で緊張してるのか、雰囲気はピリピリしてた。明日応援してあげて、今日はもう遅いから帰ってと、実にもっともな事を言われていたのだ。
俺がぐずぐずしてたのがいけないんだろう。
山本が出てきて、話はそれからおかしくなった。山本は一目で俺の落ち込んだ様子に気付き(そりゃ十五時間かけて日本に帰ってきた直後。仮眠もろくにとれてない!)、あの子はあらぬ疑いをかけられたっていう、そんな展開。
心臓に悪い一幕を終えて俺たちは歩き出した。
俺は知らない場所を歩くのはまるっきり不慣れで、土地勘もなくて、進むのが怖いとさえ思ってしまうのに、山本はそれなりに長い滞在で慣れたのか、迷う様子も無くすいすいと先を行く。
公園みたいな開けた場所(でも遊具みたいのはない、水道と木陰のベンチだけ)に着くと、そこでやっと速度がゆるくなる。小走りになってしまっていた俺の足もようやく『歩く』ことが出来たのでほっとした。
「山本、明日、試合」
「うん」
「見に行くから」
「ん」
夜間の外出にこれだけ寛容な国はないぜ、とリボーンが言っていた。どこか遠い話だったそれを、今の俺は身をもって知ってしまっている。戻ってこれて心底ほっとしている。
「ツナの用事ってさ」
「……ごめん、その」
「大変だったんだろ。顔がすっげえ疲れてる」
「あー……そうかも」
「倒れそうだ」
ぐい、と。
強く手を引かれてよろける。足下が崩れてそのまま倒れ込むみたいになって、どんとぶつかった山本の体はすごく熱くなっていた。
昼閧フ熱を吸収して、少しずつ静かに吐き出している。
一日中外にいて日に焼けた皮膚。
俺の、機中の冷房で冷え切って、中途半端に投げ出されて、ヘンな汗の掻き方をするような体とは違う。山本は違う。山本は、野球を、それでも続けてて欲しいから、俺は山本にずっと野球をしていて欲しいから、これ以上は言わない方が良いんだと思う。
「なあ、ツナ、オレら決勝行けた」
「うん、すごいよね。戻ってきてびっくりした……やっぱ緊張する?」
「はは」
「ごめん、当たり前だ。してるよね…何言ってんだろ俺」
「ツナ」
不意打ちみたいに振ってきた感触が、柔らかかった。
筋張って固い腕が脇を通って、包むみたいにして体をこれ以上ないくらい寄せる。ぴったりと、隙間無くくっついている。
驚きすぎて見開いた視界いっぱいに暗闇が広がる。外灯の下で明るい筈なのに、両目をその大きな手で覆われて何も見えない。唇に触れる何か。何かって!
ぬる、と舌が入り込んでくる。いきなりすぎて何も出来ない俺の口を割り、舌に触れて、ようやく動き出した腕がびくんと変な方向へ跳ねて何かにあたった。
「…っは、」
離れた唇がそのまま首を伝い落ちる。ぞくぞくするような感触に思わず呻くみたいな声が出ると、腰を掴んだ手にぐっと力が加わった。そっちもやばい。思わず捻って逃げようとすれば、鎖骨の辺りをべろりと舐められた。
「あ、あ」
何を、されている、とか、よりも。
どうして、こんなこと、するんだろうってことも。
全部押しつけるみたいにして触れてくる手が、口が、舌が、あの山本の、と思う所で俺の頭は爆発したみたいにバラバラになる。動悸がしすぎて心臓が痛い。息が苦しい。
「明日、さ」
青白い外灯の下で、ゆっくりと手が外され、徐々にあらわになっていく視界の端で、白い夏服がひるがえる。
見覚えのある制服。すらりと伸びた手足。高く結った長い髪。
ああ、ああ。
彼女、が。
「試合、勝ったら、今度こそ、」
言って良いか――
「やまも、と」
それ以上声が出なかった。
約束も感情もあの子の叩き付けるような嫌悪の眼差しも、全て飲み込んで渦を巻く。目を閉じた。目眩がする。うまく出来ない。俺は何一つまともに出来ないんだ。取り繕う事も、嘘を吐くことも。
その背に腕をまわして、おそるおそる力を込める。
答えのように返ってくる強い抱擁に、熱い息遣いに、逆らえずにいる。
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