清掃員の青い作業着を着ると、最近はほっとする。
似合わないスーツなんぞうんざりだ。バケツとモップと洗剤で幸せだ。
市長という立場は偉いだけで何のメリットもない………
(はっ、駄目だ、また暗くなってきた)

朝の地下鉄は通勤の客で混んでいる。ツナが利用するのは市庁までの短い時間だ。ただ乗っているのは苦痛だが、清掃員の格好をしていると別である。
清掃員という職種は、そのトレードマークである青の作業着と道具を持っている限り、街の何処へいても掃除をしなければならず、移動手段である地下鉄の車両内も同じだった。
自分の市長という特殊な立場をばらさぬよう、スーツ姿の出勤を避け清掃員に変装する。
そんな毎日を繰り返しているうちツナは、この仕事に妙な愛着を感じ始めていた。
何しろ清掃員は何処にでもいて数も多いため、何をしていても目立たないし、掃除は単純作業でだれかれに咎められることもない。
無愛想な秘書だの、人をバカにしっぱなしの処刑人にいじめられて書類に埋もれる市長とはえらい違いだ。なんてったって気が楽である。
(今日は網棚の上のホコリをとろうかな………それとも座席の下のゴミを吐き出して………)
今日もまたすっかり清掃員になりきって、掃除用具を握る。
人でごった返す狭い車内も、この格好なら皆道を開けてくれるのだ。よいしょ、と小さなかけ声をかけて僅かに開いたスペースにバケツを下ろし、さあ掃除を始めよう、としたところ。
「うわわ」
ぎゅむむむむーっと押しつぶされ、ツナは冷や汗を掻いた。実は、人の体温に未だ慣れる事ができない。
同居人にされている数々の性的接触は慣れたが、それは彼個人を限定とし、相変わらず見ず知らずの人間に触れられると緊張する。
(ふう………)
カーブを過ぎ、車内は少しの感覚を取り戻した。
作業を続けようと手を伸ばす。

(あれ…)
嫌な感じがした。背後に立たれている、しかも必要ないのにぴったりと。
モップの柄を掴んだ手が止まると、ますますその感覚は強くなった。
(押されてる…)
反射的に振り向こうとし、ぐっと抑えられた。力加減からいって女ではなく、身長は分からないが多分自分よりは力が強い。
別の手が下に下りていった。

背筋がひやりとする。
清掃員の制服は男女の区分けがないため、小柄な自分はよく間違えられる。
女だと思われて触られているのだったら………

(最悪だ…)
これがかの有名な痴漢ってやつか!
初体験だが、勿論全然嬉しくない。なんとかしてその場から逃れようと思っても、また来たカーブのせいで元の場所に押し戻されてしまう。
(俺男なんですけどォ!)
言いたいが、言えば何をされているか周りに分かってしまう。
それでも言ってしまえば楽なのだが、恥ずかしさが先に立って言えない。そのうち手はじりじりと尻を回り、前にきた。
(よしっ!)
前を触れば流石に男と気付くだろう!
ちょっと我慢すれば相手は離れていくはず、とじっとしていた。だが。
(………あれ?)
いつまで経っても手がどかないばかりか、なぞるように上下などする。ああ、なんてことだ。
(こいつ男だって知って…る………よ)
気持ち悪い気持ち悪いキモチワルイはきそー。
どーん、と気分が落ち込んだその瞬間、キキィ…と停止する。勢いよくドアが開き、手が追いかけてこないことを願いつつ飛び降りようとすると、
「ぐえっ」
その前に後ろの痴漢がホームに顔から突っ込んでいった。

「やれやれ…」
背中を押されたツナに続き、トンと軽い足音を立てて降り立ったのは、背の高い若い男だった。綺麗な顔をして、両目の色が違う。印象的で鮮やかなオッドアイは人工物ではなさそうだ。
その長い足が転がって呻く痴漢を蹴り出したのは明白で、ざわめいた乗客達はドアが閉まる最後の一瞬まで視線を外さなかった。恐らく明日の今頃この痴漢の姿は此処にはない筈だ。
列車内で悪事を働いた者は改札のID検知でふるい落とされる。
「大丈夫ですか君?災難でしたね」
「は、はあ、どうも………ありがとうございま………」
す。
最後言葉にならなかったのは、男がとても感じの良い笑顔を浮かべ、優しげな口調で声をかけてくれながらも、這い蹲った痴漢の背を容赦なく足でぐりぐり踏みつけていたからだ。
「よいですか、これに懲りたら頑張って仕事をしている清掃員さんを困らせるものではありませんよ」
「あ、あの俺なら大丈夫ですからっ!」
早く離してあげてください!
男の靴先はますます容赦なく肉にめり込み、痴漢は蒼白な顔でぐふっと胃の中の物を吐き出した。
「ああ、ホームが汚れてしまった」
「俺掃除します!だから」
「いえいえ、災難に遭われた上、こんなクズのせいで余計な仕事をする必要はありませんよ、ねえ」
ゴッと鈍い音がして、痴漢の頭が吐瀉物の上に叩き付けられた。
乗せられた足はすらっと長く、いい形でいながら、かなり力を込められるようで痴漢は身動きすら出来ない。
「あなたもそう思うでしょ?」
「………ガァッ!」
頭を転がし、うつ伏せにする。男は器用な足使いでサッカーボールのようにごろごろさせ、痴漢は自分で吐いた物にまみれて息も絶え絶えだった。やばい。
慌てて目の前の男の腕を掴んだ。
「待って!これ以上やったら死んじゃいます!」
「いいんじゃないですか?ゴミが減って」
「そんな…」
意識を失いかけている痴漢の顔色よりも青く、ツナの顔色が変わる。
男はそれを面白そうに見下ろしながら、足の力を緩めることはなかった。
「そんなこと、駄目です!」

怖かった。
この人は違っていると思った。が、何処がどうと言えるでもなく、思い浮かぶ言葉もなく、ただ違う。

だがそのままにさせておくには市長として、市民を守る立場として、どうにもまずいと思うのだ。
ツナはやや強引に掴んだ腕を引っ張った。男は案外大人しくされるがままになり、その場から数歩引いた。
「クフフ」
何その笑い方?!
思わずぞくっと背筋が寒くなるような、個性的かつ不気味な笑いだ。
「君、変わっていますね」
あんたに言われたくないよ!!
心の中でだけ勇ましくツッコミを入れるツナに、男はまたも笑いかけた。
「それにしても妙ですねぇ………たかが清掃員風情が僕の邪魔を出来るなんて」

反射だった。
立場や職種の事を言われたら、とりあえず逃げろと処刑人から言い渡されていたこともある。
その場から飛び退いたが、腕を掴まれた。淡いグリーンの光を放つ識別機が(なぜ一部の管理官しか所持を許されないそれをこいつが持っているのだろう!)、腕にかざされた瞬間青白い光に変わる。

ブルーは市長以上の管理職にあることを意味している。
(ちなみにレッドは処刑人、犬。一般市民はグリーンのままだ)
つまり―――バレた。

引きつった顔で何度も何度も腕を振り、逃げだそうとするツナを男は何を思ったのか、そのまま自由にした。
「忘れ物ですよ」
柔らかい笑みを浮かべたまま掃除用具を突き出される。
ご親切にどうも?
いやいや受け取るなんて、とんでもない。
ツナは勿論言いつけ通り、後ろも見ず一目散に駅を駆け抜けた。





「うぅ………」
気絶したままの痴漢が微かに呻く。
男はそれを一瞥し、興味なさそうに視線を逸らしたまま識別機を持った手を反転させた。
ドンッ。
サイレンサーをつけた銃声が鈍く地下に響き渡る。じっとりと足下を濡らす赤をぴちゃんと靴先に滴らせ、静まりかえった駅を彼はゆっくりと歩き出した。
「あれが………そうか………面白い」
もう一度手を振ると、そこには何もない。あまりにも堂々とした歩みに駅員は対応が遅れ、記録を取ることも出来なかった。

「次はあの子にしよう」
そう言って男は舌なめずりをし、地上への階段を上がり始めた。