摩天楼
世界と同じように、人にも昼と夜がある。生まれてこの方悪事などしたこともないような凡庸な顔をして、世間を欺いておきながら下す命令は容赦がない。
言葉だけ甘くても意味がない。マティーニのグラスにオリーブを落とす手元は微かに震えていた。他にどんな客が来ても怯える事など無い男が。
「残念だけど仕方がない。この業界、食うか食われるかだものな」
自嘲の笑みは暗く、部屋の照明を落としていることもあって尚更陰鬱だ。
手渡す際の一瞬の緊張も、立場を苦にしての険しい表情も。
「始末してくれ」
酒はストレートの方が好みだが、杯を断るのは無礼にあたる。
別に無礼は構わない。
問題は儀式や、習慣なのだ。作った杯を受け取り、飲み干すことで双方に同分の責がある。共犯者というわけだ。
この瞬間酷く頼りなげな顔をするので、いつも一息に干す所をわざとゆっくり口にする。不安は何処にも無い、お前を脅かすものは国家とて覆す準備があるだろうと戯れに言えば、ますます泣きそうな顔をして顔を背けた。気弱さの裏にどうしようもない悲哀がある。
曰く、俺は望んでいなかった。
俺にこんな大役は果たせない。
資格がない。やる気もない。
もっと単純に、おまえたちなど嫌いだと。
「そうかもしれない」
ネチネチと子供のように言い募ることはせず、男は言った。
「だとしても俺は望んでいないから、其処の所は覚えておいて欲しい」
「お前がおっ死んでも俺は指一本動かさねぇ。祝杯開けてやる。あのバカ共にでもよくよく言い聞かせておくんだな」
「ん………分かってる」
大きな選択をした後の虚脱感に負けて、眠そうな声が答えた。
「お前に任せた時点で心配はしていない―――…言ってみただけだよ」
「やめろ」
聞きたくない。
常に己の耳を塞ぐより相手を黙らせる方を選ぶ。他の誰かと同列に扱われるのは、いつでも嫌なものだった。喉頚を取ると、鋭い拳が突き出された。
受けて流して逸らし、絡め取る。
「気が短いな」
「お前は長くなった」
「そうか?」
「つまらない」
次々と繰り出される攻め手に昔のような躊躇いはない。その分、何が何でもという気合いもない。馴れすぎた関係は退屈を生む。
絡めた腕を掴み、吹っ飛ばした。
「ぐっ………!」
壁に叩き付けられて呻く、一瞬に瞳が凶暴に光る。昔は無かったもの、身を守るというプライド。以前は他人の身を心配ばかりしていた。
結局自分の前に山ほど投げ出された屍を見て学習し、徹底的に保身へ走った。
どちらにしろ極端な奴―――というのが、男に対する評価だった。
「………何をする」
「少しは楽しくしてやろうってんだよ」
抵抗を締めて封じる。
藻掻く腕を押さえ込み、後ろから抱えて足を割る。見開かれた目が滅多にない焦りの表情で、束の間愉快な気持ちを味わった。
「このバカ、何考えてるんだ」
「分かるだろう、」
答えを囁いてやると青白い貌が一気に朱に染まる。怒りにギラついた目は行為が進むに従って徐々に戸惑いへ変わり、遂に泣き言を言い出した。
「やめてくれ………」
「どうした」
「そんなこと、冗談でも」
「冗談に見えるか?」
シャツの釦を全て外すと、平たい腹が微かに上下する。滑らかな肌は初めて会ったときから変わらないように思える。耳の縁に軽く歯を立てると、驚くほど敏感に反応した。
「やっ………あ」
伏せられた睫毛が女のような艶を刷く。思いの外興に乗っているような気がして性急に身体をまさぐると、よじれたシャツの隙間から紅い色が覗いた。
カッと腹が熱くなる。
「これも冗談」
「違っ……」
「そうは見えねえ」
遠慮は要らない。首筋に顔を埋めて激しく舌を這わせる。片腕で下着ごと引きずり下ろすとか細い悲鳴が上がった。まるで、
「悪ィ事してる気分になるぜ」
「してるんだよっ…クソ、離せ………」
「それこそ冗談だろ?口開けな」
「んうっ」
指で舌をまさぐると、噛み付かれた。
遠慮がちに。
猫じゃあるまいし。
痛みとはこんなものではない。かえって煽っただけの行為に愛しさすら覚え、頬に唇を寄せる。
「いいだろう。俺を此処まで扱き使うなんてお前だけだ。少しは礼をしようって気にならねえか、なぁ?」
「は………」
潤んだ目が数度瞬く。怒りよりも、不思議がっている。
「礼になるかよ………馬鹿馬鹿しい、くだらない」
構うものか、傷つくものかと気構える顔つきは震い付きたくなるような頼りなさで、脆い。
煽られて噛み付けば腕の中の身体がびくりと跳ねた。くだらない。男はもう一度呟いた。