05.
空調の切り替える音がする。
初夏とは言え、まだ夜は冷える季節である――窓を閉めてきただろうか。
他に音のない部屋で、脈絡のない事を考える。衝撃が強すぎて受け止める覚悟どころか、理解すら難しい。
平穏無事に暮らしてきた自分にとって、事態はまったく違う世界の出来事のようだ。明らかに許容を超えてしまっているし、此方は文字通り何も知らないのだからどうしようもない。帰りたくなってきた。
だが綱吉の体は主の欲求に沈黙したままで、静かにその場に留まっている。カーテンが少しだけ開いた状態の窓辺にも近寄らない。なんとなく嫌な予感がするから。
「遅れてごめんなさいね」
出る時はパタパタと忙しい足音を聞いたと思うのに、入ってくる時はまるで気配を感じなかった。
のろのろと起き上がる。手元に、冷たい缶のお茶。
礼を言って受け取り、それがいつも自分が飲んでいる銘柄だというのに気付いた。なんとも微妙な気持ちになる。偶然かもしれない、けど。
女性は穏やかに微笑んで、優しく促す。喉が渇いている筈だから、と。
冷たいそれを口に含む。
もやもやした気持ちも一緒に飲み込めればいいものを、まだ気分は落ち着かない。
暗い窓の外からじわりと気味の悪さが忍び込んでくるようだ。
「それで、俺はどうしたらいいんですか。母さんは…」
「とりあえず貴方には、私達の用意する別の部屋に移って貰う事になるわね。お母様の事なら心配要りません。そのうち会う事も出来るでしょうから……どうか、した?」
「いえ…」
外は、どうやら雨が降っているようだ。
そのせいなのだろうか――いや。いつもならまったく気にならない、気にとめたことすらない雨音がやけに耳につく。嫌な感じだ。
「綱吉君?」
「あのう、此処、出ませんか」
今までぼんやりと窓を見ていた綱吉が、いきなりぐるりと振り向いたせいか。
女性はびくりと緊張した顔つきで立ち上がり、恐らくはカーテンを完全に閉めようと窓辺に歩いていく。
その手を掴んで引くと、驚いた様子で肩が跳ねた。
「どういうこと?」
「…ちょっと、なんか」
ただ嫌な気配を感じた、と言ったとして彼女は納得しないだろう。
説明しろと言われても難しい。綱吉は、時々こういう予感が働く事があり、大抵は逆らわずに従う。これは、経験則だ。予感を無視するといつも酷い目に遭うのである。
今までの人生犬に噛まれたり足の肉がえぐれるほど酷い転び方をしたり、たちの悪い輩に絡まれたり等々、数え上げればきりがない不幸な目に遭ってきたが、年齢を重ねる事にそういう突発的な事態は減っている。ような気がする。それは行動の自由性が増したのと、綱吉自身この妙な勘働きに逆らわないよう過ごしているからだと思う。多分だけど。
例えどんなに遠回りになっても、一見面倒のように思える手順も、ただなんとなくで選び従う自分は少しおかしいのかもしれないが。別にいいじゃないか。世の中占いで進む方角を決める人間もいるのだから。
「此処の安全は確保されているから」
「あ、あんぜん?」
予想もしなかった言葉にぎょっとする。
逆に危険があるのかという話だ。それがどういう種類のものにしろ。
そういえばバジル君の怪我の原因についてを忘れていた。組織だの狙われているだの、物騒な単語が踊っていたような気がする。寒気がしてきた。
「大丈夫?」
正気を疑われても仕方がないかもしれない。
うっかりというかなんというか。意識してすらいなかった恐怖を、勝手に、感覚的に相手に訴えるとは。
普通の人なら馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだろう。
だがやはり人を捕まえて貴方は組織に狙われているのよなんていう発言をする人物は、普通ではなかった。
彼女は唐突に手元から一見携帯、恐らくは何かの通信機器を取り出して、意味不明の言語を喋りかけていたのだが。
「歩哨から連絡が取れないわ。正面はまだ――行きましょう」
「へ?」
自分から言い出したくせに途惑う綱吉の手を取って、彼女は走り出した。
照明が落ち非常灯の明かりだけの通路を結構な早さと足音で突っ切っていくのに、誰も出てこない。
この建物、人がいないんだろうか?
「まっ…て、くださっ……バジル君がまだ」
「狙われているのは貴方で彼じゃない。大丈夫よ!」
そうか、安心、と思えないのが残念だ。
引っ張られっぱなしの腕がいい加減痛い。
しかし綱吉は文句も言わずひたすら走る。この人についていくしかないと例の勘が言っている訳で。行くしかないじゃないか。
2012.6.9 up
06.
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