料理の先生骸×ツナ

 

 トントン包丁の音がする。
 なんかいいにおいがする。
 浅い眠りと目覚めに向かう意識の狭間で、俺はぼんやりと手を彷徨わせる。
「……ん?」
 いつも布団の横、枕のすぐ側に置いてあるはずの目覚ましが今は影も形もなかった。
 それどころか、掴んでいるのに引っ張れないものをよくよく見ると、艶が出るまで磨かれたベッドヘッド部分で、そりゃ掴みきれない筈だよ。
 かなり広めのダブルベッドの上で、ゆっくりと身を起こす。
 辺りを見渡せば家主の姿は既になかった。きっと今頃台所に立っているに違いない。
 この部屋に来て俺は一度もあの男より目を覚ましたことはない。
 あの先生はいつだって朝には一分の隙もないくらい整った服装でご登場だ――感心しちゃうねまったく。
 さてこっちはというとこれが残念な事に頭は寝癖でボッサボサ、頬には涎の跡がついている。当初はおろしたてだったパジャマも今では程良く馴染んでクタクタで、手首超痛い。
 とりあえず一目見た印象は……みっともないと称される状態であるのは確かだ。
 寝惚けた頭でゆらゆら揺れていると、唐突にドアが開く音がした。
 ずんずん近付いてくる気配に重たい瞼を開きかけ、不意に陰った視界にそのままゆっくりと下ろす。
 待っていたように瞼へあたたかい感触が触れた。
「おはようございます。朝食の支度が出来ましたよ」
「……」
「起きられますか?」
 それとも運びましょうかと問う声はどこまでもクソ真面目だった。いやあんた、そんなベタな。以前入れたツッコミは怪訝そうに聞き返され、意味がわからないと首を傾げていたので本当に正真正銘そういう性質らしい。少女漫画以外で生息確認不可能な生物。実存しているとは夢にも思わなかった。怖ぇ。
「……おき、ます」
「大丈夫ですか。あなたまだふらふらしてますよ」
「がんばります…」
「頑張らなくて結構。此方に運びます」
 答える前にさっさと行ってしまう。寝室は寝る所で食べる所じゃないと思うんだけどなあ。俺の1Kの安アパートならともかく、先生は折角こんな良い部屋にお住まいなのだから、俺なんぞ叩き起こして席に着きなさいと言えば良いだけなのに。
 あたたかみの残る布団から足を出し、床にぺたりと触れさせる。
 覚醒に十分な冷たさを得られるかと思ったのだが、現実は程良いすべすべ感と体温ほどではないにしろ適度な温度を保っており、その感触に若干苛立つ。別にくやしかないけど。ないけども!
 しょうがない。先生は自分で教室を開けるほど実力のある料理研究家で、雑誌だの番組協力だの、そんでレシピ本なんか出しちゃうような、そういう人だった。
 そんな人がなんで俺みたいな冴えない男の朝食を張り切って準備し、甲斐甲斐しく世話しまくってくれてんのかというとそこには単なる料理教室の先生と生徒という関係を逸脱したホニャララがある訳だった。ヤだなあ。
「今日は和食なんですよ。すみませんがテーブル出してください」
「うん」
 ふわりと漂う味噌汁の香りに、意識はかなりはっきりしてきた。
 部屋の隅に寄せられていたローテーブルをズゴゴゴと引っ張ってきながら、こんなんだったらそっちで食べた方が早かったんじゃないのかなーと思いつつ、しかし親切はありがたく受け取るものとして俺はさっさと床に座り込んだ。
「熱いですよ」
 さっさと目の前に置かれる味噌汁の椀、白米を盛られたおちゃわん、湯気立つだし巻き卵に添えられた大根おろし。青菜の小鉢。
 魚は脂ののった秋鮭で、その鮮やかかつ美味しそうな焼き色と匂いに腹がグーと鳴る。
 完璧じゃないの、これ。素晴らしい。
「ではいただきましょうか」
 なんでも出来る人だ。
 本職の料理はもちろん、掃除も洗濯もアイロン掛けも新しい電化製品の扱いまで完璧。
 頭がいい。大抵のことは訊けば答えが返ってくる。
 顔もいい。教室や外でうっとり眺められてる。男女問わず。
 背が高くて体力もそこそこあって、欠点なんかあるのかなと思うような、そんな完璧な先生だけど……
 惜しむらくはつまり、この人、趣味おかしいんだね。



「仕事、忙しいんですか?」
「あー…どうだろー…今週はー…」
「君が来てくれる時は、大抵家に戻るのが面倒な時ですもんねえ」
 あとちょっと僻みっぽいな。
 最初厭味かと思ったんだけど、顔を見ると無表情な中にも少しだけ拗ねたような目をしていて、ご機嫌ナナメのサインがある。
「楽なんで」
「やっぱり」
 鮭を器用に箸でほぐしながら、先生は若干低くなった声で呟く。
「食事の用意して、お風呂沸かして、快適なベッドを提供するだけが僕の存在意義ですか」
「今一個飛ばしたでしょう…」
 それだけなら俺は先生に感謝の言葉どころか舞いだって捧げ奉る。
 でもそれだけじゃ済まないのがこの世の理。俺は風呂に入ってまったりテレビ見て寝床に潜り込むような生活を夢見つつ実際はもう一回風呂に入り直す羽目になるじゃないか。それもくたくたに、もうぐったぐたに! 疲労しきった体を引き摺って!
「だって貴方、何を疲れることがありますか」
「はあっ?!」
「何もしないのに」
「……それは」
 朝っぱらから喧嘩売ってるんだろうか、このセンセイ。
 何もしない。確かにそうかもしれない。
 俺は自慢じゃないがこういう付き合いは殆ど素人の域で、学生時代のオママゴトの延長みたいな男女交際やこんなもんだろーとほどほどに現実を含んだお付き合いの中顔を合わせれば愛を囁く(しかも、真顔)相手との蜜な日々など過ごしたことなど一度もない。
 元来が、人間関係に対して引き気味のツッコミ体質な俺は照れが邪魔して気の利いた言葉一つも言えやしないし、それはこういう…関係になってもあまり変わらない。
 だからこれが、例えば純白もしくはパステルカラーのかわいいエプロンを着けてちょっぴり照れくさそうなロングヘアー女子とかだったりすれば、それはもう申し訳ございませんと地べたに這い蹲りたくなるシチュエーションなのだが。
 今現実として、目の前に居るのはシックな茶のエプロンを着けたシャツ姿のロングヘアー男子だったりするので、目が半分になってしまうのも仕方がない。
「できないでしょう」
「照れてるんですか」
「いえ、これは本当に本当の物理的に。俺がどうこう出来るレベルを超えてるっつか」
 そういう状況になると一も二もなく両腕を拘束するのは、あれはどうなんだ。無自覚なのか? それこそまさかってもんだろ!
 初めての時にびっくりしてやみくもに腕を振り回したら先生のご尊顔に拳を入れてしまったという事実は勿論あります。けど、だからって、まず自由を奪う方向で来るのはどうなんでしょうね。そういう趣味なんですか?
「アレ止めてください。跡も残るし危ない人みたいでいやだ」
「それは…」
「そういう趣味なんですか?」
「いいえ」
 分かってる。この人は分かってるんだ。
 全部終わった後で紐、ネクタイ、縄、手錠(あああああ)を外し、擦れて赤くなった部分に優しく口付けてすみませんと謝るのだから、自覚はあるに決まってる。
「君が……」


 嫌がったら。
 決まってる。嫌だよ。

 拒絶されたら。
 当たり前だろ。するよ。合意じゃねえもの。あの時はさ。


 手間暇込めた朝食を作るのも、わざわざ運んでくれるのだって全部俺の為。
 あの日、記念すべき、忌まわしい、最初の日。
 全身の痛みで動けないで、色々とショックで声も出ないで、ただひたすらぼろぼろ涙を零す俺にこの人、俺を痛めつけた当人の癖に、この人は、とびきり優しく口付けて台所へ立った。
 軽快な包丁の音、鍋に水を入れる音、フライパンの上で跳ねる油の音。
 様々な行程を経て朝にはありえないほど手の込んだ食事を作り上げ、振る舞った。
 おずおずと差し出されるスプーンにのった白いポタージュスープを俺は口を開けて受け入れ、叫びすぎて傷む喉で飲み込んだ。
 贖罪を受け入れ寛大な心でもって許した事が、これがそもそもの間違いなんではないだろうか? 最近気付いたけど。
「先生」
 三つ葉の浮いた味噌汁を啜りながら、俺は視線を落として呟いた。
「俺に何かして欲しかったら腕縛るのは止めてくださいね」
 からんと乾いた音を立てて、長い指から転がった箸。
 かろうじてという感じで乱暴に置かれた椀。
 焼かれてるみたいな強い視線を感じながら俺は味噌汁の椀を置き、前方にずいとちゃわんを突き出した。
「おかわり」


2011.11.2 up


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