番外編:脱サラ
「脱サラ…ねえ」
そんな予定はなかった。
別に今の仕事に大きな不満がある訳でもない。ただなんとなく、手に取った雑誌の一枚目がそれだったというだけの話だ。独り言である。
「なになになに?」
「なんでもありません」
「えーなに沢田さん仕事辞めんのー?」
「お、大きな声出さないで…誰もそんな事言ってないだろ!」
少ない休憩時間、息抜きに訪れた某大型チェーン店コーヒーショップ。
休むために来たのに、要らんもんまでついてきた。おかげで綱吉は座って何秒もしない内に声を荒げてしまうのだった。
「ただ読んだだけだから…」
「脱サラへの第一歩! 辞表の書き方…引き際の良い男は……新しい自分と…」
「声に出さなくていいんからっ!」
「読んだんじゃん」
「ううう」
正確には、自分のソレはただの呟きである。
人に聞かせるものではないのだと…説明しても…
(分かんねえだろーな…やっぱり)
綱吉の首に後ろから腕を回しているのは、露天形式のアクセサリーショップ店員のベル。
彼とは同じ職場に出勤する仲であり、たまに強引に連れ出され、食事に行く程度の付き合いだ。
こんなベタベタされるような間柄ではない。
「離してくれ」
「えー」
耳元にフーと息を吹きかけられ、ゾワゾワーッと鳥肌が立った。
振り払うべく体を捻っても、その体勢のまま後ろから押さえ込まれて身動きが出来ない。
(なんなんだこの状況は!)
動かそうとしても、彼の細い腕はガッチリと食い込んで動かない。何故だ。武道でもやっているのか。
当初の会話を忘れてその腕から抜け出す事のみに集中していた綱吉は、ふと囁かれた言葉に動きを止めた。
「え?」
「だから、沢田さん何か出来んの」
「別に俺は…」
するつもりは全然無い。けれども、いざ聞かれれば真剣に考えてしまう。
「えーその」
「無理でしょ」
スパンと言い切られてガクリと肘が落ちた。
確かに、確かに出来る事は少ない。生来不器用な彼は制作業にはまったく向いていないし、体力もないから力仕事はすぐバテてしまう。書類仕事を覚えるのも一苦労だ。
「ううん」
真面目に考え込む綱吉を見て、ベルはにやにやと意味ありげな笑いを浮かべた。
「今ってすげーフケーキなんだろ? いつクビ切られっかわかんねーよなー」
「縁起でもない事言わないでくれよ…」
「でもま、大丈夫」
ずいと顔を寄せられて、思わず仰け反る。
「オレのアイジンしよ、アイジン。不自由させねーからさ」
「はああっ?!」
ナニをキモチワルイコトを。
驚愕し固まっている間に、頬ずりまでされた。ひたすら気持ち悪い。
「な、な、なにをバカな」
「バカじゃねーよ。だって沢田さん他に特技も無いし」
「失礼だな君は! っていうか」
言いたいことは数あれど、結局パクパクと口を開閉した後綱吉が言葉にしたのは一番現実的な問題だった。
「そんなお金どうするんだ。愛人っていうのはね、お金が…かかるんだよ…」
一般的な見地から言えば…そう、あくまでも一般論で!
男の夢だろうが、それにはまず経済力が必要なのだ。
「お手当払うアテが無いとそういうのは…無理だから」
「えー? だから沢田さん給料××万でしょ? ラクショーなんですけど」
「なんで知ってるんだ! そんなに給料良いの?! …じゃない、そういう問題じゃないぞ!」
「いいじゃん愛人。ラクして稼げるぜ」
「意味分かってる?」
いぶかしげな顔をする綱吉に、ベルはにっかと笑って親指を立てて見せた。
「365日好きな時にいつでもデート」
「まあ、うん」
「膝枕で耳かき」
「…悪くはないよね」
「朝昼晩セッ」
続けようとするのを寸前で押さえる。
「…言わなくていいから」
「モガモガモゴフガ」
「そういう冗談も、こういう所では止めて欲しい」
「ムガフッ」
完全に黙り込むのを見計らい、そっと外した綱吉の手をベルはべろりと舐めた。
「ンギャッ!」
「冗談じゃねえっつーの。足下見やがって幾らありゃいーのよ」
「そういう問題じゃないよやらないよっ! は~な~せ~っ!」
「ヤ~ダ~ッ」
こうなると駄々っ子である。
「そんなに高いワケ? じゃーシャチョーに言って払って貰おうっと。そんで、シェアすんの」
「頼むから変な話しないでくれぇぇ」
必死に話題の改変と、距離を保とうとする努力を嘲笑うかのように――
スーツに腕を通さず羽織ったお馴染みの格好で、新聞片手に現れた件の社長の姿に、綱吉は悲鳴を上げた。
パッと見やくざもんみたいな強面の男は、騒がしい二人にすぐ気付いたようだった。
ずんずん此方へ向かってくる。
「あのねーシャチョー!」
「うわあああやめろおおおお」
「ちょっと相談があるんだけどー! んぐっ」
「アハハ何でもないですどうもこんにちはアハハハハハ!」
2009.4.25 up
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