はしる/3

 

 

 ギィ、と古ぼけた木製のドアが鳴る。
 元は個人病院だったらしいこの小さな建物の内装は外見の頑丈さとは程遠く、安っぽいカラーとはげたペンキで彩られていた。板で区切っただけの寝台、どこからとも無く這い上がってくる土臭い風。不似合いな手術室。
 "住人"を全員外へ追い出した後、一団は束の間の休息を取ることにした。発電機はまだ動いていて、奇跡的に燃料も残っていた。車に使えるかどうかはまだ試している最中だ。雨水の濾過装置、ボイラー、全部使える。最後にシャワーを浴びたのはいつだったか…ようやく人間らしい気持ちになった所で、今後の進路を決めた。
 南部では死体の劣化も早く、伝染病や飲み水の汚染が瞬く間に広がった。北上するにつれてそれはいくらかマシになり、冬に向かう気候のせいでそっちの心配は無くなったようだ。
 だが食料や燃料を手に入れ、弾薬を補給するには危険を避けて通れない。大都市からなんとか脱出に成功し、こうした旅を確立してから――最初の頃襲った倦怠感が再び隊を襲おうとしていた。慣れや疲労はノロノロ動く死体より恐ろしい。
 周囲にぐるりと警戒線をめぐらし、センサーで絶えず監視しつつ、一時的に此処を根城にする。この事に異議を唱える者は居なかった。皆限界を感じているのだ。

 リーダーは、他の者と違って弱音を吐くことを許されない。
 長い間この隊を率いてきた男は、実は出発した当初からどうしようもない精神的疲労を身のうちに抱えていた。彼はこの惨状を目の当たりにし、ショックを起こす前にまず物事の解析を始めた。そして先を見て、絶望した。何処にも逃げ場がない。
 世界中人のいないところは無いし、数が多すぎて対応しきれないだろう。生き残った人間が力を合わせたとしても――奇跡的な団結力で様々な困難を解決したとしても、元のような文明生活を取り戻すことは不可能に近い。
 人口は益々減り、人々はより利己的になり、争いが起こるだろう。火を見るよりも明らかだ。
 彼は先の不安を口に出すことは出来なかった。相談、なんてものじゃない。丸ごと先がない事を叩き付けるような行為だ。
 目先のことに集中し、日々をただ生きる、それだけを考えて走ってきた。
 そろそろ、次の事を考えなければ。

 フゥッ、とため息が暗闇に散った。
 彼の手が足下に転がした布包みのようなものにかかり、上からそれをくくっている紐をぐるりと外す。
 布はボアの着いた外套だった。包みは人間で、それは虚ろな目を瞬かせたが、暗闇では物が見えず直ぐに止めてしまった。
 彼は男の身体を縛り付けている縄を外し、口に噛ませている布も取り外した。こうする時の習慣で、男はハア、と大きく息をつく。新鮮な空気を貪り、呼吸を整えてから、決まってその場を逃げ出そうとするが長期間同じ形に縛られている手足は思うように動かず、幾らも歩かないうちに倒れてしまう。
 倒れても藻掻く男を、彼はゆっくりと追って捕まえ、部屋の隅まで引き摺った。
 それまでの床板から、タイルの感触に男は束の間抵抗を止めて様子をうかがう。キーと嫌な音を立てて彼がバルブをひねると、上から冷たい水が降ってきて、男の髪を濡らした。全身を濡らす頃にはお湯になり、彼は器用に石鹸を泡立てて蹲る男を洗ってやる。
 石鹸でぬるぬると滑る腕を掴み、汚れた首から頭、顎。次第に降りて胸や腹と上半身を洗い終わると、彼はまた石鹸を泡立て直した。
 抵抗を諦め、じっとしている男の足、内股、薄い尻まで。ぐんなりとした性器も足の指の間も、触れていない場所はないまでに根気よく洗ってやる。
「…どうするかな。これから」
 彼は其処で今日初めて男に話しかける。荷台でも、外で地面に伏せている時でもいつでも、見下ろし、威圧しているような、恐ろしい目をして見せつつ、今この状況で飾り気無しのうんざりした口調が口をつく。
 男は暗闇の中、特に何の感慨も浮かばぬ呆とした顔で掠れた声を出した。
「大きな…街か……軍の施設か」
「軍が残っていると思うか?」
「それ以外…何…」
 男が正気だという事実は、彼以外は誰も知らない。普段その場を離れる時に彼は必ず言う。『そいつを見張っておけ』――以前の男、自分の町に戻る為に走っている車から飛び降りようとしたこと――を覚えている他の者達は特に疑問もなくその命令を実行する。または彼の忠実な部下だからだ。
 声を出すことも、身体を自由に動かすことも出来ない男は最初の二日かそこらで正気を訴える事を止めたようだ。以来、加えられるどんな行為も、男は他人に言う事が出来ない。男の世界は彼で閉じられていて、外には出られない。
「自、分、で」
 運動しないせいで骨ばかりになった腕が彼の手を払おうとするが、くるりと身体を裏返し膝で押さえつけると、抗議の呻き以外聞こえなくなる。
「地下は駄目だ。逃げ場がない。平地は丸見えだから囲まれたら終わり。ビルは……空を飛べればそれもアリかもな。一番マシなのは、人が住んでない山奥だろうよ」
 上辺では会話を続けながら、彼の注意は別の所へ行っている。男の痩せた身体に残る、人間らしい感覚と言えばこれだけだ。
「う……」
 痛みも、熱さも、冷たさも反応がない。全てに対し受動的で、口を開けば放っておいてくれと言う。
「今出来るのは移動し続けることぐらいだ」
 言葉と共に指を押し込むと、ぐぅとくぐもった声が出る。
 少し哀れになり、目線を下ろして床に座り込む。彼は夜目が利き、男の表情もはっきりと分かる。眉根を寄せ、辛そうな表情だ。
「お前はどう思う?」
 湯が顔に降り注ぐ。壁に背を押しつけ、蹲っているのを膝上に乗せて石鹸を握らせる。弱い、指の力。
「疲れた。後、頼む」





 頬や耳のうら、胸板を擦る――と言うより力が無くて撫でる事しか出来ない手が、先をくるりと丸めて言った。
「俺、帰、る…」
「…なんで」
「かえ、り、たい…」
 男は一度も、責める言葉を吐かない。彼について訊くこともない。
 ただこれだけを繰り返し、彼を心底うんざりさせる。ぬるついた身体の表面を湯で流してしまうと、彼は痩せた身体を探り、逃げる腰を捕まえて楔を打ち込んだ。