狐のお宿

 

 虫の声がしている。
 山だから、日中は暑いが朝夕は大分涼しい。
 うちわの風を送られながら、綱吉は熱い茶を飲んでいた。宿の部屋に置かれている緑茶ではない。
 香りが良く、変わった味がするものだ。
「化けても口がきけない。まだ若いから」
 白い男――狐か?
「あの子では駄目? 気に入らない?」
 彼はまだ何か喋っていたが、既に綱吉の興味は其処から逸れていた。うん、うんと頷くだけでろくに聞いていないのだ。
(なんだ…? ミョーに眠い…)
「今食事を運ばせるからね。君は傷が癒えるまで何もしなくていい」
「……は、あ」
 力を失った綱吉の身体を、腕を支えて男は楽しげに笑った。
 子供のように膝上に抱き上げられる。
 その体勢を何故だとか、嫌だとか思う前に眠気が波のように襲ってきて綱吉の顎が落ちる。気配無く戸が開いて、膳を持った女達が恭しく綱吉の、男の前に捧げて側に控えた。
「口を開けて」
 綱吉は従順に口を開け、気付いた。
 眠いのではない。
 男の声を聞くだけであらゆるものへの強ばりが解け、無防備な状態になっているのだ。催眠術をかけられたみたいに。
 その状況に慣れてくると徐々に手足を動かすことが出来るようになり、綱吉はずるずると身体をずらせて丁度良い位置を捜した。まるで母親の腕にあって安心しきる子供のように、安らかな気持ちで。
 唇に触れた盃には、酒が入っていた。
 酌をする女の目は灰色で、彼女は大層美しかったが――綱吉はそれを見ても綺麗だなあと思うだけで何を感じる事も無い。
 男から出されたものを口に含み、ゆっくりと咀嚼するだけだ。
 料理は美味しかった。
 山魚や山菜は宿に泊まるようになってから毎日口にしている。
 何の変哲もないそれが、一口噛み締める毎幸せな気分になる。美味である。

 美味しい、というような事を伝えると、男は嬉しそうだった。
 いつの間にか部屋には沢山の気配がして、女も男も大勢いた。その一人一人が頭を下げ、無言で通り過ぎて行くのだが、中には口をきくものも居て綱吉ににっこりと笑いかけ、その魚は自分が捕ったものだとか、味はどうでございましたかとか聞くのだ。
 この大勢の者達――男の説明と今見たものを信じるならば、狐達は、何処から来たのだろう。
 宿はそう大きくない。
 こんなに泊まり客が居ては大変なのじゃないかと、妙な事が気になった。
「ふふふ」
 頭の上でした声に振り向くと、ぼんやりした視界に男の愉快そうな表情が見える。
「山が崩れて道が途切れたから、人は追い出したんだ。少し前から此処の人間は君一人だよ」
「ああ…」
 綱吉は馬鹿みたいに感心する。呆れた、に近いかもしれない。
 てっきり宿の人間とばかり思っていたのに、入れ替わっても気付かないなんて自分は間抜けだ。しかも一人取り残されるなんて。
 くつくつと笑う。男も笑っている。なんだこれ。
 楽しい気分なのは間違いなかった。



 踊りだの歌だのでもてなされても、綱吉にそういうものは分からない。  もてなしがいのない現代っ子なのである。
 ただ、男の話は面白かった。
 なんでもよく知っていて、辛抱強く、綱吉が知らぬ言葉を聞き返しても嫌な顔などせず丁寧に説いてくれる。
 淀みない滑らかな口調や豊富な知識。
 彼が見た目通りの若い男ではなく、齢を重ねた位の高い狐である事は分かった。
 それを心の底から信じて、綱吉はたわいない問いをした。
 何処から来たのかとか、名前とか。
 男は少し考えた後、遠くを見るような目つきをして海を越えたのはずっと昔の事だ、と言った。
「名前はね…うん。教えてあげてもいいんだけど」
「…ん」
「きっと君は忘れてしまうよ」





 救助隊が来たのは、山崩れで道が封鎖されてから一週間も後の事だった。
 山崩れが起きた時点で、宿には避難勧告が出されていたらしい。
 宿の人間は早々に山を下りたのだった。綱吉が取り残されているとも知らず。

 綱吉はそれらの説明をぼんやりと聞いていた。
 飢えているのでも、乾いているのでもなくただひたすら眠かったのだ。
 お礼の宴とやらは三日三晩続き、まだ頭がぼんやりしていて。
 そんな中ドカドカ宿に上がり込んできた救助の人達は、まるで滑稽に見えた。
 何処も悪い所はないのに――足さえも治っていた――病院に詰められ、無事で良かったと涙を浮かべる母親の顔を見てもまだ実感がわかなかった。
 宿の人間が謝罪に訪れても、まったくそんな事は間違っていると思った。
 何度も確認したが宿にも風呂にも姿が無かったので、先に降りたのかと思っていたそうだ。 
 そもそも避難勧告が出された時、この山奥にもサイレンを鳴らされて大層な騒ぎだったらしい。
 気付かず留まっている事は有り得ない。
 後で帰らないと連絡が来て、青くなったという。
「大丈夫です」
 なんの問題も無かったし、こうして無事でいるのだから。
 ちょっとばかり妙な気分だけども。

 彼の仕業だと綱吉は思っている。多分その推測は正しいだろう。
 今もその笑い方や自分を捕らえていた腕の感触、声は明瞭に覚えている。
 しかし彼の言った通り――聞いた筈の名、その顔。記憶は靄がかかったように曖昧だった。聞いた話など半分も覚えていない。もっとも、これは元々覚えの悪い自分のせいかもしれない。
 だから誰にも話さないでおこうと思う。
 どうしていたのかと問われても、ただ風呂に入って寝ていたと答えた。のんきな自分に周りは呆れたようだったが、無事で良かったと言ってくれた。

 本当に。

 捕って食われたならまだしも、自分はもてなしを受けていただけだ。
 美味い料理を食い、酒を飲んで。
 良いご身分じゃないかと、綱吉は自分で可笑しくなった。


2008.8.6 up


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