Schrödinger's cat/柿本千種

 

 

 

毎日の儀式にも関わらず―――否、回を重ねるごと心が乱される。白い包帯とガーゼに包まれた瞼の裏に、隠された瞳の色を千種はまだ知らなかった。
頬の傷は既に薄い痕を残すだけになっているが、これからが長い。完全に消えるまでに一年はかかるだろう。
柔らかな肌に触れても、青年はぴくりとも動かない。完全に安全だと知って身を預けきっている。
この無防備な姿を見る度、千種は理解できなさに落ち込む。まるで自分が欠陥人間であるかのように思われ、此処にいない主の事を考える。
「………よし。傷は、治っている」
「はい」

薄い瞼と睫毛が震える。
恐る恐るひらいたそれが眩しさに眇められ、痛むのか押さえて頭を振った。

「大丈夫か」
「痛ってぇ………う、はい」
ゆっくりと顔が上がり、外気に瞳が晒された。大きな目だ。
大きくて、茶色をしている。

千種は黙って相手の望むまま、自分の顔をさらしていた。大きな目を更に大きく見はって、沢田綱吉は物も言わずその顔を凝視した。
「千種、さん?」
「ああ」
返事が終わらない間に頬に手が伸び、千種は内心狼狽したが体も表情も動くことはなかった。
青年の細い指は目を閉じていた時と同じように慎重に千種の顔を辿り、目尻に触れた人差し指が頬を伝って滑り落ちる。
「ふふ、ほんとだ」
「?」
「六道さんが言ってました。『千種は余り表情豊かではないのですけど、目がね。分かるんですよ』って。綺麗ですね」
「………」
何のつもりか問い質したくなるような、優しい指先。言葉。
ボンゴレ10代目になる筈だった男はふわりと、柔らかい表情をした。心の底からの笑みを浮かべる。
「思った通り。優しそうで安心しました」
「そう…か?」
「はい」

にこにこと邪気の無い顔で笑っているこの人間を、いつか手にかける時が来るだろうか。
知りたがるようではいけない。
眠る彼を腕に抱いて六道は呟いた。今思えばあれは独り言で、千種に向けたのではなかったのかも知れない。けれどその時は直ぐに答えた。
"命令を下さい。俺がやります"と。

「ああよかった」
直ぐに立ち上がり、部屋を見渡し、彼はテーブルの上の果物を見つけて駆け寄った。
「やっぱり見えた方が美味しいんだろうなあ」
大口を開けてリンゴにかぶりつく。止める間も無かった。
「すっぱい!」
「…まだ熟してない。料理用だから」
「しぶい、けど、水気あってウマイですねこれ」
ガリガリと歯を立てて果実を囓る姿は小柄さも手伝って小動物めいている。
「がっついてすみません。もー我慢できなくてだって俺食べるの大好きなんですよへへ」
屈託無く笑い、はしゃぐ彼を見る。千種は無表情に頷き、俯いて眼鏡を直す。

聖書の一節を思い出していた。
見るという行為は確かに毒だ。きっとこれから自分は躊躇いをうち消しうち消し生きていく。彼の運命が揺らぐその日まで。





表向き医学生をしている千種の元に、顔を見るのは一年七ヶ月ぶりの主が唐突にやってきたのは、雪の降る深夜だった。
懐かしいと思う暇もなく―――玄関を雪だらけにして彼は抱えていたのをそっと下ろし、何か温かいものを下さいと開口一番そう言った。
千種は頷いて、笛を外したケトルの中身をカップの中に注いだ。煮出した薬草茶は喉の為にストーブへかけっぱなしになっている。
味は可もなく不可もなくと言った程度である。
「どうぞ」
差し出したカップを受け取り、六道はその場にかがみ込んだ。少し口に含んで熱さを確かめた後、床に下ろされてぽかんとしているそのものに与える。
「熱いですよ。気を付けて」
「…りがと」
「なに?」
「あの、腕、出させてください。動けないから…」
「寒いから駄目です」
あっけにとられている千種の前で、六道はそっとカップを小さな口にあてた。
何の説明もなかったが、千種はくるりと後ろを向き、寝室へベッドを整えに行った。
彼は客を迎える事に慣れていず、部屋は散らかったままだがきっとどうでもいい。
それは全身ぐるぐる巻きで、目にすら包帯をあてていた。見える訳ではない。

六道骸はある日突然に別れを宣言し、今後の指示を与えて姿を消したのだった。
元々そういう所のある人間だったので、千種は別にショックも受けなかった。ただそうかと思っただけだったが犬は納得しなかった。むくろさんむくろさんとしばらく泣いていた。
もういい大人の年齢なのに、窓辺に張り付いてくんくん鼻を鳴らすのが本物の犬みたいで可笑しく、笑ったら喧嘩になった。

しかし犬の感傷は裏社会で密かに囁かれ始めた一つの噂で終わりを告げた。身元の知れない謎の男が始末屋を始め、あっという間に名を知らしめてしまったからだ。
今までなら手出しをせぬ事が暗黙の了解だったマフィアの高幹部が次々とヒットされた。あくどい者、名を知られた者、時々はそうでないものも。
依頼は全て「同業者でない」者から行われていた。
世界中のマフィアは恐怖した。実際彼が現れてから拡大一方だったその筋の市場は初めて前年割れを起こし、各ファミリーのボスは警備強化の為自衛の為の武器を買い漁った。

むくろさんかな、他に誰がいる、の会話を繰り返しながら千種と犬は密かに命じられていた事の準備に取りかかった。
彼等はまず不法な手段で入手した国籍を定置付かせるべく、社会的地位の高い職に就いた。また、その準備をした。犬は警察機関に潜り込んだし、千種はこの通りの医学生である。
それぞれその立場で可能な限りの情報を収集し、時々来る六道の連絡はその全てを彼の頭脳にファイルした。
ネットに散乱する情報だけでも膨大なものがあったが、それだけでは駄目だった。組織内に入り込まなければ分からない人間関係、派閥、細かな権力闘争に心証は特に重要だった。カードの位置は常に変更がなされ、"皇帝"が明日は"吊された男"になっている事も珍しく無い。
月日はあっという間に過ぎ、犬は昇進し千種は大学で教授の助手の地位につけた。

そんな六道が直に来た。しかも、こんな目立つ連れを伴って。
しかも彼は翌朝にはそこを発ち、今度は地球の裏側に行かねばならないらしかった。千種と犬が協力して着々と貯めていた偽造パスポートと各身分証明書を数点、選んで差し出すと彼は言った。
「あれをくれぐれもよろしくお願いします」
誰なんだ。
六道の顔を見ると、少し笑って答えた。
「ボンゴレの、10代目」
「―――?!」
「となる筈だった男ですよ」
攫って来ちゃいましたと呟く口元が笑みの形に吊り上がる。
皮肉気なそれに千種は違和感を感じた。どことなく自嘲的に見えたのだ。





目を覚ましたボンゴレ10代目は当然六道を呼んだ。
憂鬱な気持ちでいないと説明すると、少しの沈黙の後「またか」と低い声で呟いた。
「あの人、そういうとこありますよね………自分勝手が服着て歩いてるみたいな。クソ、最悪だ」
「そうだな」
驚いたことに、千種は反射的にあいづちを打っていた。それを聞いて彼は大喜びし、そうなんですそうなんですどうせ誰に言っても分かって貰えないと思ってたけどあなた分かるんですね!とはしゃいだ声をあげ、その後ベッドの上で深々と身を折った。
「すみません、これからご厄介になるそうで………」
しきりに恐縮する。
「別に」
命令だ、という言葉を喉奥で止めたのは六道の最後の一言だ。
部屋を出る時彼は言った。

「彼は何も知らないし、知ってもいけない」

足が動かない上に目が見えない、かろうじて動かせるのは腕という状況の患者を前に千種は大学や病院から調達してくる幾つかの物をピックアップし、本格的な治療とリハビリのプランを立てた。大家には日本から親戚が来たとでも行っておけば良いだろう。家賃は十二分に払っている。

共同生活は、思いの外負担がなかった。元来、犬の世話を焼いてきた千種に沢田綱吉はとても手のかからない人間だった。動けなさを引いても、余るほどに従順で大人しい。
千種が大学へ行く日中は黙って音楽を聴いているらしい。帰宅すればさすがに寂しいのか、夕食の支度をする千種の側で黙って気配を伺っている。何をしているのかあてるのが気に入りで、当たると喜んで次の行動をリクエストした。

最初はイタリアはおろか世界でもトップクラスのマフィアであるボンゴレという名に警戒を隠せなかった千種だが、やがて六道の「彼は何も知らない」という言葉の意味を理解した。
文字通り何も知らない。
日向を生きてきた人間の脳天気さ。警戒心など無く、害意など生まれてこの方持ったことなどないのではと疑うほど温厚。
試しに刃物を向けてみても、見えない彼は無邪気に言った。

千種さん、料理上手ですね。

包丁を連想し、次に料理。呆れるほど平和な思考に殺意は粉々に砕け散り、修復は不可能だった。生殺与奪を握る相手を前に急所を晒し続けるこの生き物は本当に何も知らない。
指示通り、そっとしておくしかない。




今度は約2週間で顔を見せた六道は、千種と沢田綱吉の共同生活に満足の様子だった。
やはり、間違ってはいなかったのだ。千種は何故か安心した。
そして納得もした。

その夜、与えている部屋の前を通ると密やかな喘ぎが聞こえた。六道がベッドの上の彼に多い被り、何事か囁きながら彼を抱いていた。
その言葉は酷く優しく、甘い響きに満ちていてまるで女に対するようなもので、千種はそっと扉を閉めた。閉じる瞬間、潜めてはいても隠しきれない、高い嬌声がこぼれた。

六道のそれが今までの気まぐれでないとどうして言えるだろう。

普段完全に欲求を閉じている千種の体は不意にアルコールを欲した。彼はコートを掴んで靴を履くと、そっと玄関から外へ出た。










「これからは、どんどん外を歩いた方がいい。ただし一人は駄目だ」
「どうして?」
「危ないから。日本とは違うし言葉も分からないだろう?」
「えーと………じゃあ」
「俺が連れて行く」
大きな茶の瞳を見据えながら、千種はその手を握った。安心をおぼえたのか彼は頷く。
「決して一人で外出するな。………六道さんが心配する」
「分かりました」

日曜には犬が来る。最初こそ嫌な顔をするだろうが、きっと直ぐにうちとける。
3人の中では一番頑なな自分でさえそう時間はかからなかった。千種は確信していた。


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