「なんで…なんでこんな事に」
 息を詰めて部屋の様子を窺う。
 なんとか口実を見つけて洗面所にこもったはいいが、今出て行ったら確実に――
「逃げなきゃ。誰か助けを」
 今日一日の自分はどうかしていたに違いない。
 逃げるチャンスは幾らでもあった。途中何度かドライブインやスタンドに寄ったし、一度は大きな街も過ぎているのに。
(いや…)
 本当に、チャンスなんてあったんだろうか。
 身分証や現金は手元にある。逆にそれが怖かった。
 金が目当ての強盗の方が、目的がはっきりしている分まだ理解できる。
 鼻歌を歌いながら上着を脱ぎ、吊している男を綱吉は注意深く見張った。

 見るからに機嫌が良さそうである。

(いやおかしいだろ色々と!)
 部屋はお世辞にも清潔とは言えないし、空いた空間は古びた家具やテレビでぼつぼつと埋められ、かえってそれが殺風景。
 男は――骸はその真ん中で歌いながら両腕をがばっと広げたり、唐突にクルクルと回ったり、自由自在である。
 怖すぎる。
 震えながらべたりと壁に背を付けると、後ろからドンドンドンッ、と壁を叩く音がした。
「?!」
 振り向く。誰も居ない。
 いや、一瞬だけ人影が――
「助けて! 助けてくれー! ここから出しっ…」
 窓枠を揺らして訴える綱吉に、コココンッと軽いノックの音がした。
「どうかしましたか?」
「ひっ…! い、いや何でもない!」
「だって今――」
 ガチャガチャとドアノブが回される。
 鍵を閉めていた筈なのに、ノブがぐるんっ、と激しく回ると。
「…っ!」
 そのまま回りきって鍵が壊れ、ドアノブごとごとんと落ちた。
「おやおや。安普請ですねぇ」
「そそそそぉーだなぁー…はは…は」
 現れた骸の手元には、反対側のドアノブが握られていた。錆びていた。ボロかったんだと自分に言い聞かせ、綱吉は無理矢理笑顔を浮かべる。
「ん? シャワー使えないんですか」
 ずいと寄ってこられて反射的に避ける。
「まあまあ、遠慮なさらずに。夫婦ですから」
「う、うん…」
 泣きそうになりながら手が宙をかく。
 腕一本で進行を妨げられ、為す術もなく周囲を忙しく見渡す綱吉の目に窓から覗き込む人影――のようなものが見えた。
「酷いな」
 恐怖にかられ、ツナはぱくぱくと口を動かす。
 助けて。
 自分を抑えている男を指差し、頭を指差し、必死の形相で訴える。
「使えそうもないですよ」
 骸が振り向くと同時に、人影は消えた。
「え?!」
「水が。汚れていて、ほら」
「そうだね…酷いな…」
 上の空である。
 きょろきょろと視線を移動させるやら、唐突にダッと走り出そうとしたり。
 落ち着かない綱吉を宥めるように、骸はポンポンと背中を叩いた。
 と思ったら、そのまま滑るように手が下りる。
「ンギャッ!」
「あのね、君…もう少し」


 ドンドンドンドン!


「…?」
 部屋の方だ。
 どうやら隣の部屋から――激しく壁を叩く音がする。
 一瞬腕の力が緩んだ隙を見計らって、綱吉は転がるように洗面所から出た。
「ったく…」
 ぶつぶつ言いながら後に続いた骸は、壁越しにコンコンと、上品なノックをする。
 ただし続いた言葉は上品とは言い難かった。
「誰ですかこんな夜更けに。僕達夫婦はこれからめくるめく非常に親密な夜を過ごす予定なので、あまり騒がしくされては困るんです」
「お、おい!」
「邪魔をしないで頂きたい!」
 ズバッと宣言をした骸がくるりと振り向く頃には、綱吉は出口に向かって一目散に駆け出していた。
「いやあー! たすけてえー!」
「はっはっはっはそう照れなくても」
「だれかー!」
 それまで笑っていた骸の目が、ぎらりと剣呑な光を放つ。
「…誰ですって?」
「ひっ?!」
「この場に誰か呼ぼうというのですか。僕の他に?」
「うう、う」
「そんな事をしたら――」


 ドンドンドン!


「――その誰かのはらわたがこの床にぶちまけられる事になりますが」
 口調は、とても静かだった。
 その分ドスがきいていた。
 綱吉の口はぱくぱくと開閉するだけで、声が出ない。
 喉がひりついたように痛む。
「じょう、だん…」
「だとお思いになる? ほう。では」
「行かないでくれ!」
 引き留める為にその背に縋り付くと、クフフッとまたあの不気味な笑いが。
「勿論冗談ですよ?」
 満面の笑みで振り向かれ、綱吉は恐怖に凍り付く。
 絶対に冗談じゃなかった。
 その手にはいつの間にか長い棒のようなものが握られていて、その先は金属の刃が三つ叉に別れている。
 綱吉は目を擦った。見間違いでなければ、それは多分初めて実物を見る――実に古風な武器だった。
「な、それ…いつの間に…」
「おっと」
 手を一降りするとそれは消えた。
「ええっ?!」
「なにもないですよ?」
 骸は笑顔で空の手を振ってみせる。
 口のうまさも含めてマジシャンみたいな男である。
 いつの間にか外の音も止んでいた。
「まったく人の迷惑も考えて頂きたいものです」
「うん…うん…」
 不条理に満たされた綱吉の思考は爆発寸前だ。
 呆然と腕を引かれるままの彼を見て、骸は至極満足そうに笑む。
 そのまま身を屈め、二人が唇を触れ合わせる寸前また――


 ドンドンドンドンドン


「……ちょっと失礼します」
 馬鹿丁寧に断って、骸は綱吉をベッドに置く。
 キラキラしい笑顔はドアを向く頃には般若の形相になっており、震える綱吉を後に置いて彼は外へと突進していった。ドアを開けるなどという手間はかけない。
 蹴り飛ばした。
 手にはまたあの矛が出現している。
 それを振りかざし、叫ぶ彼のシルエットは禍々しさに満ちていた。
「隠れても無駄ですクハハハハッ!」
 どすん、ばたん、ごろごろごろと激しい物音がしている間に、綱吉はこっそりと、忍び足でドアから出る事に成功した。







「すみません、思ったより手間取りまして」
 全てを終えて部屋に戻ってきた骸は、開きっぱなしのドアと――微かに、遠くに聞こえる車のエンジン音に目をくわっと見開いた。
「クフ…」
 車がない。彼の手荷物も。
「クフフフフフ」
 返り血で汚れた頬を拭い、壊れたように笑い出す。
 その目は獲物を追う興奮に輝き、壮絶な光を放っている。
 遠く、微かに見え隠れしている車の灯を見据え、男は楽しげに笑った。
「僕から逃げ切れるとでも思っているんですかね…?」


2008.9.3 up


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