潮時だった。
少し顔を知られ過ぎていたし、色々変なことに巻き込まれた。何より町自体、徐々に人が流れ出していた。
既にこの町の経済に食い込んでいた彼等の存在は、町そのものを道連れに崩れ始めた。ささやかな快楽より強いそれが求められた。
既にここでは用無しなのだ。
部屋を貸してくれた友人には会って礼を言いたかったが、音沙汰もなかったし、こういう事は初めてではない。ガラクタを処分して家を出た。

数枚の着替えだけ詰めた小さな鞄と、もう二年目になる厚手のコート。財布一つで駅へ立つ。習慣で新聞を買い、席に着いて待つ。コートは袖の釦が取れていた。どこで引っかけたやら、見当もつかない。
ゴト………ゴト………列車は動きだし、駅が徐々に遠ざかっていく。夜の出発は景色が見えず、妙な感傷や感慨を避けるにはうってつけだった。
新聞を広げる。
「うっ」
………思わず口元を抑えて俯くと、隣の席の老人が胡散臭気に俺を見た。ついでにひょいと新聞を覗き込み、ああ………と唸って眉を顰める。原因は一面の写真。
そこには黒い血だまり(多分)の中に倒れている町長のうつろな死に顔があった。

多分、きっと、彼は剣を派手に使いすぎたのだ。
ガタガタと揺れる洗面所で昼食を吐く。
忙しさで夕食をとらなかった事に感謝した。今ごろここは大惨事になっていた筈だし、俺も随分苦しい思いをしたろう。
すっぱい胃液で満ちた口の中を濯ぐ。吐く、という行為はどうしてこんなに苦しいのだろう。胃の中の物を搾り出してまだ残る不快な味と、匂いと。

そういえば、結局吐きはしなかった。なにかというと、まあアレだ………俺は結局あの男と寝たのだった。
数日は堪えていたが、あっさりと負けた。奴は案外ねちっこい性格で人の顔を見る度卑猥な誘いを口にし、キスを強行し、面白みの無い俺の体を触りまくった。仕事が詰まっていたのか―――気まぐれか―――いずれにしても事実は事実。新しい世界の扉を開いてしまった俺は自分でも呆れながら驚くほど順応した。奴に冷やかされる程に。
一度だけ―――一度で十分だ、あんなことは一生に何度もするものではない。寿命が縮む。翌朝は一気に五歳ぐらい老けたような気がしたし、数日は腰がおかしかった。執拗に絡む腕も、背中に感じる熱も、絶え間なく中を抉る奴のアレも、知っているものとは明らかに違うのに、どこか懐かしい感じがして多分―――俺の中に眠っている子供の部分を呼び起こしたのだと思う。顔も知らない両親の、父親の腕に抱かれ、この世に生まれた全ての子供として当然の権利を享受して幸福に暮らす筈だったあるいはの人生。考えないように生きてきたのに、ふと思い知らされるのは決して手に入らない望み。答え。
当の相手はまさか自分が父親になど重ねられているなど思いもしないから、実に好き勝手やっていた。一時間近くも体中嘗め回した挙句、どろどろになった俺を転がして突っ込んで。激しく突かれる度どんどん小さくなっていく俺の声がおかしいと笑い、耐え切れず転がれば無理やり腰だけ持ち上げた。
「いいんだろ………オレの言った通りだろうが」
違う。
俺はその時本当に久しぶりに我が身の不幸を実感し、味わい直していたのだ。涙は感情で、生理的なものではない。ああ父さん、母さん、どのような事情があるにせよ、俺はここにこうして生きているのだからせめてあんたたちを知る権利くらいある筈だ。俺には俺の家があって良い筈だ。自分の部屋の自分のベッドの上で、自堕落に過ごす子供時代があってしかるべきである。それがどうして。

俺は目を覚ました時、掠れて出ない声でぼそぼそと滅多にしない身の上話をする羽目になった。原因は………目を擦ってむにゃむにゃしただけで起きると勘違いしたのか、肩を掴まれてガクガク揺さぶりやがった忌々しい。
「わかったわかった………今出てく風呂にも入るしー…」
「違ぇよ」
目の前に札束が積み上げられていた。多分、鞄から出した生のままの現金。その山。
ものすごい身売りもあったもんだと俺は目を剥いたが、結局「いらねー…」つって布団を被った。
「何が欲しい」
「いらない………寝かせろ………」
「おい」
寒い。べりべりと布団を剥がされそうになってしがみつくと、布団ごと振り回される羽目になった。クソバカ力め。
「大金持ち歩かない主義なの………邪魔なんだもん」
「分かんねえ奴だな………別に、この家でもいいぜ」
「冗談じゃない」
なんでだとか起きろとかもううるっさいったら。
俺は乾燥した空気と激しい運動のせいでガサガサに掠れた声で、渋々答えたのだった。
「要らない。そもそも俺は一生自分の家が持てない。そういう呪いなんだ。昔、俺にまじないをくれたバアサンが言った。このトシになるまで部屋一つ借りたことがない。家なんかとんでもない!………そもそも、お前みたいな男のヒモになるぐらいなら石を抱いて川に飛び込む」
「冬にか?」
「冬なら尚更な。速攻カタがつくじゃんか。とにかくもう………放っておいてくれよ」
めんどくさい。





「冗談じゃない………」
ぶつぶつと独り言を言う。隣の老人は車内の暖かな空気にうとうとし始め、俺は真っ暗い外を見た。
今まで、色々な場所を旅した。まだ十代、行き倒れ寸前に助けられた家で足の不自由な老人の話し相手になり、養子にならないかという話を持ちかけられたこともある。偏屈だが優しい人で、まるで本当の家族のように優しくして貰った、けど。
結局逃げるようにして其処を旅立った。まるで追われるようにして。別れの手紙は涙でくしゃくしゃになり、出ていきたくなどないのに。俺はこの人が好きなのに。でも、居られない。ある程度まで親しくなっても、それ以上は関わりたくなかった。

あ、また。

どうしたのか分からない。涙腺が緩み、ぼろぼろと雫で零れた。
センチなティーンのガキみたいに俺は鼻を啜り、服の袖で拭う。馬鹿みたいに息を飲み込んで。きっと、人肌に触れた事がいけなかった。熱かった。あたたかだった。無理にでも逃げれば良かった。じゃなきゃ、アイツのメシに薬を混ぜるとかなんとか………そう、とにかく、考えれば出来ない事じゃなかったのに。
隣のじいさんがもぐもぐ言い出して、今にも起きそうだったので逃げるようにして席を立つ。誰だって、起きて横の人間がグスグス鼻啜ってたら異様に思うだろう。さっき使ったのとは逆の洗面所に飛び込むと、顔を洗ってペーパータオルで拭った。ついでに鼻もかんで、つまらない感傷も自分を可哀想がる為の不幸も全部まとめてゴミ箱に突っ込む。
スン、と真っ赤な鼻を鳴らして便所を出ると、目の前に信じられないものが立ちはだかっていた。

「な、なん…で……」
「勘」

一言そう、言い捨てると、男は手を洗い始めた。
真っ赤な血と混ざったピンクの水が、銀色の排水溝に流れていく。町長の血が。




2006.7.3 up


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