隣人
バチン。
力を入れてゴムのバンドを引っ張り、手を離すと勢いよく戻って行く。ギャッ。叫び声が上がった。
あんまり人間離れした声だったので笑ってしまう。
「ひでえなあ、おまえ」
物言いたげな目が眼鏡の奥から彼を睨む。多分酷いの意味を間違えている。
(オレが言ってるのはお前の声だ)
酷いのはそっちだとか思っているに違いない、其処まで考えて驚いた。
どうしたのだろう、他人の頭の中を想像するなんて。
珍しいことばかり。
(しかもひでえ間抜け面)
茶褐色の、何の変哲もない色がかえって興奮する。
さっきから炙られてるようにチリチリ、そろそろ端から焦げてるんじゃないかと思うくらい熱く、何か衝動的なものを感じているが何だろう。
原因は目の前の男で、これは明らかだ。
解せないのは、彼が一度獲物と定めた相手の指を引っこ抜くことをせず――(捻り切るんだったかな?)傷の手当てを約束して相手の部屋に居る事の方だった。
「ありがとう」
わざとゴムバンドを当てた患部を、ふうふう言って冷やしている男は、見ず知らずの相手を家に招き入れることに何の抵抗も感じなかったのだろうか?
まして、そいつは隣人を殺し、たった数日前には手際よく死体をバラして冷蔵庫に詰める作業までやった訳で…
「本当に助かったよ」
(オレが?)
空白。
「ああ…」
思い出した。
袋からこぼれ落ちた雑貨と、コンクリートに叩き付けられ、潰れた食料品。
オレンジの臭いが未だ手からしている。そう…
「別に」
半ば呆然としながら彼は適当な答えで受け流す。この、オレが? 誰かのために床へ落ちた物を拾ってやったって?
「時間があるなら、あの、お礼を」
「のどかわいた」
「う、うん? ん…今お茶を入れるよ」
男は立ち上がった。
背はそんなに高くなく、体つきも華奢だ。
年齢は分からない。若いようにも年を取っているようにも見える。地味であるという以外何の特徴もない服装に、表情の乏しい顔つき。
ぐるりと部屋の中を見渡す。必要最低限の家具と、その割に物の散らかった狭い空間。
隅に畳まれた安物の服以外にスーツを吊しているでもなく、靴もスニーカーやサンダルばかりだった。テキストの類が一つもないから学生ではないだろう。何をしているのか。
「なあ」
男は台所へ向かい、此方には背を向けている。
鈍そうなナリの癖に声をかけると直ぐ返事が返ってきた。
「おまえ」
「うん?」
「おまえ…えーと、名前」
「俺の?」
ちょっと躊躇うようなそぶりを見せた後、何故か慌てて答える。奇妙な奴。
「ツナヨシだ。サワダ、ツナヨシ」
「ツナヨシは何をして日銭を稼いでるんだ?」
「……」
その時相手から受けたなんともいえない視線。
生涯忘れることは無いだろう。
こんなちっぽけで取るに足らない奴の癖に、ツナヨシは実に複雑な感情を示した。
「…色々。別に」
「オレの質問に答えないなんて、何様のつもりだ」
「ええ?」
流石に苛ついたのだろう、はっきりと不快の念を表したツナヨシの顔が――また奇妙に歪んだ。
予想もしなかった答えに回路をぐちゃぐちゃにされた人間特有の、素っ頓狂な顔。
「君は?」
「オレは」
彼は日常的にたくさんの嘘を吐くが、これだけは偽った事がない。
「オレは偉いぜ。だって王子だもん」
「なるほど」
予想に反し、ツナヨシの反応は平坦なものだった。
ちょっとの間もなく「なるほど」をやられて彼は面食らった。誰だって聞き返したし、冗談だと思って笑い飛ばした。
そんな無礼な奴らに王子である彼は罰を与えた。不敬という罪だ。
今もそのようにするつもりが、実は半分程あった。
「王子だもん」
「砂糖使う?」
「いらない」
またしてもこの男は、彼の刃をかいくぐって逃げおおせた。偶然だろうか?
「実は朝食もまだなんだ。この所買い物に行く暇が無くて」
そんな物には興味が無いのに、彼は頷いて先を促した。
「よかったら二人分作るけど…」
「たべる」
相手が言い終わる少し前、急に空腹を感じた。
反射で答えると、まるで分かっていたように二つ。フライパンに卵を割り入れ、沸騰しているヤカンの火を止め、カップに注いで…
(料理なんか)
「料理は殆どしない。いつもその辺のを適当に買ってきて食べるだけで。してくれるような子もいないしね」
(案外…)
年齢はいってるのかもしれない。
物言いが古くさいし、仕草がぎこちない。
オーバーな表現は一切無しで、時々機械みたいな無表情になる。普通の人間が知りたがる事を、今のところ全然聞いてこないし、興味がないのか。
いいや。
「卵は半熟と、堅焼きと…」
「生キライだ。しっかり焼けよ」
「分かった」
此方を伺う視線にははっきりと、探るような色がある。それに、興味がなければさっさと追い出す。これは違う。何か。
何だろうか。
「はいどうぞ」
お茶のカップを持ったツナヨシが目の前に立っていた。
さっきまでフライパンを持っていた。彼の脳はツナヨシが『早すぎる』という印象を抱いているが、時間は確実に経過していた。時計の針が進んでいたからだ。
迷った末、カップを受け取って一口飲んだ。
(ありきたりな安モンだ)
香りのない、ただ色の付いた湯を口に入れる。美味くもないが不味くもない。
いつもなら山ほどつけられるケチを思いつかず、彼はぶるぶると首を振った。
(なんだっけ)
目を開けると男は既にできあがった朝食を手に持ち、例のぎこちない笑顔で言った。
「ごめん。ジャム切らしてた」
2008.9.28 up
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