夫婦の寝室

 

 すうすう寝息を立てる妻の隣で、スクアーロは天井を睨みつけていた。
 昨日まで苦しげだった呼吸は元に戻り、熱も下がっている。鼻声が少し残る程度まで回復したツナは今までを取り戻すような食欲を見せ、一安心といったところだ。ツナは。

 ―――問題はオレか。

 スクアーロは目を瞑り、眠りが訪れないか努力してみた、しかし―――そう気張れば気張るほど目は冴え、身体は起きてしまっている。
 こればっかりはしょうがない。少々特殊な職についているとはいえスクアーロも立派な成人男性であり、欲求は当然ながらあった。それは、一般人よりかは己を律する事に自信があるものの。
(しばらくやってねえ)
 ストレートに言えばそういうことである。
 妻はまだ幼い上、ちょっと変わっているので回数的には世の新婚夫婦に遠く及ばない。ツナが忘れていれば、スクアーロも特に要求したりしない(ように努力している)、一月近くご無沙汰ということもある。
(今はまずいだろぉ…)
 ツナは風邪が治りかけている、ようやく食べられるようになったばかりだ。
 そんな体力の無い状態で………可哀想じゃねえか。

 我慢しよう。

 ぐるんと寝返りをうったスクアーロは目を閉じ、心を無にし、眠りの境地に達しようとしていた。
 ところがそんな時に、誘われて寝返りを打った妻がぴったりと背中に寄り添ってくる。無意識だろうが、肩にしがみついて離れない。
(お前はぁぁ〜〜〜!)
 今はまずいとばかりじりじりと身体を移動させるが、ツナは手に力を込めてしがみついてきた。腕が肩から次第に下がり、脇を通って、前に回ってきゅうと。
 傍目には、サルの親子みたいな。
「うー」
 普段からくっついて寝たがる妻に、スクアーロは我慢を強いられることが多い。
 そこはそれ、年の功とか念じる力とか精神力とか夜中こっそり起き出して冷たいシャワーを浴びる、という対策を立ててきた。しかしそれにも限界がある。
 じりじりモゾモゾしていると、起きてしまったらしいツナが不満げな声を出した。
「…んだよー」
「い、いや、なんでもねえ」
「トイレ?そんなの早く…」
 もらす前にさっさと行ってこいなどと無情な発言である。
 無言で起き上がったスクアーロは、ポチリと部屋の照明のスイッチを押した。
 ごろりと転がったツナは眠い目を擦り擦り、起き上がろうとした旦那の前に立ちふさがる。
「………」
「………」

 互いに無言で目線が合った。

「………なんだ。言ってくれればよかったのに」
「う」
 半分眠たいのもあるのだろう。
 元々そういう、ムードも雰囲気もへったくれもないバッサリした感性をしていることもある。
 ツナはスクアーロが入れたスイッチを再び切って暗くすると、布団にごろりと転がって言った。
「さあ、どっからでもかかってこい」
「お前はァァァ!!!」
 腰に手を当て、仁王立ちポーズ。
 気合の入った文句にスクアーロは興奮するより萎えた。
「あのなぁ!お前は!そういう、ああもう!」
「何怒ってんの?あー………」
 そうか、そうだよなと一人納得し、ツナは暗闇でごそごそやっている。
 何だと構えたスクアーロの前でがばりと男らしくパジャマの上衣を脱ぎ捨てると、腕を組んであぐらをかいた。
「よし、どっからでもかかって」
「止めろぉ―――!」
「注文が多い…」
 スクアーロは多くを求めているわけではない。多分。
 しかしツナに恥じらいとか躊躇いとかきゃっ、ああん、なんて属性を求める方が間違っている。面倒くさいどころか思い浮かびもしないだろう。基本乾いた感性の持ち主だ。
「なんだ、何が不満だ!」
「あのなぁ………」
 むしろ普段より男気が3割増しぐらいになっているツナにそっとパジャマの上衣を戻してやったスクアーロは、ぐったりといった。
「お前は病み上がりなんだぜぇ。そんな格好でいたらまたすぐぶり返すだろうがぁ………」
「うん…」
「あとな、うん。お前に多くは求めねぇよ…ただな」
 黙ってそこでじっとしてくれればいい。
 真摯に訴える旦那に対し、ツナはぽかんとした顔をしていた。



「………」
 さて。
 暗闇で、気合を入れた顔をしたスクアーロの頭の中はただ一つ。
(どっからでもってお前)
 言うとおり、どっからでもかかっていった場合、ツナの反応はひとつである。
 布団に横たえた妻の反応は、今にも眠りに落ちそうなほどぼーっとしている。
 警戒心が無いのは気を許しているからだろうか
―――気を許しすぎか。
 ツナは最初からスクアーロに対し気安く、ちょっと腕が触れたとかころびそうになったところの尻を支えただとかいう場面も、けろりと「ありがとー」と言ってしまえるぐらい、もう空気のように感じているらしかった。
「………うぐぅ」
 そっと側に横たわり、はだけて準備万端(威勢良く脱ぐな!萎える!)のパジャマの裾から
手を―――
「うぐぶっ」
 またか。
「うへへへへへへっ」
 なんだそりゃ。
「うぁはっ!おごぉ!アヒャヒャフウー!」
 スクアーロは愛しの妻をくすぐっている訳でも、ヘンな場所を触っている訳でもない。
 まあヘンといえばヘンだろうがそれは夫婦だし、むしろそのヘンな場所を触りまくるのは最終的な目的にかなっているし、全然、問題ではない。
 問題なのはツナである。
「あっはっはっは」
 異常にくすぐったがりのツナは、旦那に触れられているだけで大爆笑なのである。
「あっ、ちょっと、ウヒヒッ………ワヒャー!」
 クネクネと手から逃げたがる、細い腰を掴む。
「ギャッ」
 ギャ、である。反応がギャ。
 有り得ない。
 スクアーロは思いっきりため息を吐きたい気分を抑え、妻をコロリと転がした。横にして腕を差込み、後ろから抱えてしまう。
「ひー、ひー……」
 職業柄夜目の利くスクアーロにツナの様子ははっきり見えた。顔を赤くしているのは恥らっているからでも、興奮しているからでもない。くすぐったいのだ。
 もうどうにもキャッキャキャッキャしているのを、がしっとまるごと抱えて開き直ったように触りまくる。裸の胸を手のひらで掠めるとびくりと腰が引きつった。そろそろいいだろうか。
「ツナ…」
 手を前に回し、手で押し包むようにする。びくん、と小さな身体が跳ねる。
 無遠慮にパジャマの中へ突っ込むと、薄い木綿の生地に濡れた感触がひっかかった。
 下着越しにそっと掴み、緩く扱いてやる。
「うん…」
 それまでアハハだのアヒャヒャだのと騒がしい笑い声ばかりあげていたツナの反応がやや大人しいものになる。
「うん、う、ははは、は………ん、んーっ」

 敏感なのは間違いない。
 感じ方に多々難があるので、それに耐え得る精神力…早い話が我慢が出来るかどうかである。
 自分は幸いにして我慢強い方であった―――
 スクアーロは若干遠い目をしつつ、初めて床を共にした時を思い出した。
 半分ヤケになってゲタゲタ笑うツナを弄くっていたら、くすぐりの果てに一応は目的を果たした訳だが…

 長身のスクアーロに比べると、妻は大層小柄である。
 手足も子供のように小さい。腕をまわせばすっぽり収まってしまう。
 布団の中ではあ、と小さく息を吐き出す音がした。笑いの発作は過ぎたようだ。じっとして何も言わない。ただ背を丸めてうぅ、と鳴く。
「大丈夫か…?」
 病み上がりなのを心配して問えば、ううんと微妙な返事が返ってきた。
 これはいかんのか、やめた方がいいのか。手を止め、後ろから覗き込んで様子を伺うと、いきなり脛を強かに蹴っ飛ばされた。
「いてえ!」
「………」
 スクアーロは涙目で、ツナは無言である。
 反射で引っ込めた足をさすってくれているので、一応悪いとは思っているのだろう。スクアーロは特に文句は言わず、黙って手を動かした―――今のはオレが悪かった。
 薄い胸が呼吸音と共に上下している。
 力を込めれば折れそうな腕に、細い首。そっと唇をあてるともう一度うん、とくぐもった返事が聞こえた。了承の合図とすることにする。
「ん……」
 足の間で派手に手を動かすと、ツナは小さくぶるりと身を震わせた。
 注意深く(また蹴られるのは勘弁願いたい)顔を寄せキスをする。啄ばむように何度も触れてから舌を滑り込ませると、きゅ、と眉が寄る。暗闇でもそれがくっきり見えた。
 ツナは完全に現代人らしいトリ目なので、不安そうにきょろきょろさせている。戸惑っているというのが正直なところだろう。
 無理も無い。結婚するまで誰とも付き合ったことが無いのだと言っていたし、さもあろうとスクアーロも納得する。如何にも不慣れな様子、デリカシーに欠けまくった言動。余程我慢強い相手でなければこうまで持っていくのは無理だ。
 キスを続けたまま少し強く擦ってやると、堪え性のないツナはあっさり吐き出した。
 濡れた感触が手の内に広がる。
「…うん……」
 もう笑いは欠片も出てこなくなったところで(長かった…)濡れた指を滑らせ、潜らせる。
 固く、突っ張って閉じた足の力を抜き、僅かに開いて、ウンウン頷いている所を見ると、妻も異存は無いようだ。顔を赤くしているのは恥ずかしいのだろう。やっと。
(かわいいところもあるじゃねえか………………探せば)
 至るまでは長いものの、贔屓目に見ずとも閨の妻はかわいらしいと思う。
 まかり間違ってあの変態同僚や怪しげな上司にこまされる事態になったらどうしようかとスクアーロは気が気ではない。それだけではない、妻の元同級生やら、先輩やら………
「ぅ……んっ!」
 初心者の妻を気遣う夫は先日病院を訪ねた折、医師に手渡された小さなケースを取り出した。
 片手で器用に蓋を開け、ひとすくい取って塗り込める。さらりとしたクリームは馴染みの無い感触だが、まあ、曲がりなりにも医者が寄越したものだろうとスクアーロはすっかり油断していた。その医者が―――ロクでもない『たらし』である事を忘れていた。
 そもそもそれは先日風邪っぴきの妻の診察を依頼したシャマルが診察の合間、横たわりスヤスヤ寝息を立てている妻の横にじっと張り付くスクアーロに向け、チョイチョイっと手招きして渡したものだ。
「んだこりゃあ?」
「いいから取っとけって」
 診察室のカーテンの中、ニヤニヤと意味ありげな笑いを浮かべたシャマルに「風邪が治ったら奥さんに使ったげて」と言われたので、バカ正直に取り出した次第である。
「なに…」
 クリームの付いた指先が中に潜ると、ツナは小さく身じろいだ。
 宥めて指を動かせば、声はうやむやになって布団に潜った。いつもより熱い気がして一瞬躊躇うが、此処で止めたらまた蹴られるに違いない。スクアーロ自身限界でもある。
「少し我慢、な」
 断ってから、指を深くまで抜き差しする。急に激しい動きになったせいでツナがぐうぐううめくが、痛みは無いようだ。
 柔らかい腿で挟まれると背にじっとりと汗が浮いた。手に触れている感触はさっきケタケタ笑われて萎えた分を取り返して余りある。ふうふう必死な荒い息も、そっと、自信無さ気に伸ばされる小さな手も。
「う…」
 後ろに、恐る恐る回された手が触れて、パジャマ越しにひっかくような動きをする。
 堪えきれなくなって指を根元まで突っ込むと、アッと高い声が漏れた。
「いいか」
「た………多分…」
 なんとも頼りないお返事。
 スクアーロは眉を下げつつぐるりと目を回した。この状況でそういうことを言うかお前は………言うだろうな。お前なら。ほぼ諦めの境地である。
 よいせと横を向いている妻を転がす。
 はふはふ浅い息を繰り返しながらじっとしているその目をじっと見て確認すると、足にわだかまっているパジャマを下着ごと引き抜いた。腿に手をかけ、くいと左右に開く。
「あ、あのさ………」
「どうした」
「お前………」

 目つきすっげー悪ィなあ。

「………んだそりゃ」
「普通にしてても『怒ってる?』って聞かれない?」
「…それは」
 今必要な会話なのか。否。
 天然にも程がある妻の腹に額をあて、がっくりと落ち込むスクアーロに追い討ちがかかる。
「あ、やんないの?」
 誰のせいだぁぁぁぁ。
 言葉にならない叫びを堪え、ぐいぐいと妻にしがみつく。涙さえ出てきた。
 頼むからお前は喋るな、黙ってろ………!と喚き散らしたいのを堪えてずるずるずり上がる。
 ツナは相変わらずぼーっとした顔をして、言動は思うがまま、自由気ままである。
「なんかざわざわするなー」
「オレもだ」
「なんかねえ」
 そう言うとツナはおもむろに旦那の手のかかった足をぱかっと開き、クリームを塗りたくられたソコに中指を突っ込んで見せた。
「ココ。ヘンな感じする」
「っ………!」



「うっ………ぁあ…!」
 急に無言になり、圧し掛かってきた旦那を支えながらツナは切れ切れの声を出した。
 指は直ぐに引き抜かれ、腕ごとポイされてしまった。
「ぁう」
 ずぶずぶ挿入ってくる独特の感触に眉を寄せ、耐える。潤んで熱い粘膜が入ってくる異物を追い出そうとしているのか、迎え入れようとしているのか。ツナにも分からない。
「うぐーっ」
「お前………お前はよぉ………」
「な………にっ!」
 ほにゃもにゃにゃ、と訳のわからない音が続く。きっとイタリア語だ。人は感情が高ぶるとお国言葉が出るからな、とツナは知ったかをした。意味は分からないがとにかく旦那は夢中である。
(俺はもうちょっとだなー)
 初心者の癖に、いや初心者だからか、ツナは妙に冷静な思考で事態を眺めていた。
 今日はなんだか様子がおかしい。旦那はいつも様子がおかしいけれど、自分も今日は違う。
 旦那に訴えたように、身体がざわざわするのだ、本当に。
「うう」
 いつもは入ってくるモノを受け入れるのに精一杯で(多少は苦しい、やっぱり)考えている暇も無いのに、今日はやけにすんなり入るは、ざわざわはするわ、落ち着かない気分になるわ。異常だらけだ。
「ね……ぇ…」
 半分ほどから一気に根元まで収めた旦那があぁ?と顔を覗き込んでくる。
 いつもだったらツナはもうはあはあ、ひいひい、話をするどころではないのだが、今日は違った。
「ちょっと、ヘン、だ」
「何が…」
「だからっ………な、いっかいぬいて…」
「あぁん?」
 旦那はがっかりした声を出した。
 しかしツナの言うことは概ねきいてくれる。きっと今回もだ。

 盛り上っている最中に抜け、と言われてスクアーロは冗談じゃねえぞと思ったのだが。
 本当に妻の様子がおかしかったので大人しく腰を引いた。
「ひぃ!」
 おかしいのはそれからだった。抜き去る瞬間ツナはびくりと身体を震わせたかと思うと、咄嗟に前を抑えてぶるりとした。
「オイ!だいじょう………ぶか」
 指の間からとろりと流れる。スクアーロはあっけに取られた。
 たった、今の動きだけで達してしまったらしい。本人も呆然としている。
「ううーっ」
「どしたぁ………お前、ヘンだぞ」
「だから、さっきから、言ってるじゃんかっ……」
 ああ!もう!とか突然叫び出すと、いぶかしむ旦那の首ったまにかじりついた。
「ヘンだー!ざわざわする〜!」
「お前そりゃ…」
 スクアーロは無言で指を滑らせた。腕の中の身体がびく、と跳ねる。
 指で辿るとソコはじんわり濡れていて、ぬるりとした感触………これはあのクリームが溶けたものだろう。
「…あ」
 そこまで考え、スクアーロは唐突に思い当たった。
 このクリームはあのエロ医者がニヤニヤしながら渡してくれたもので………
「なあ、あのさ…」
 ヘンだから止めようとか病院がどうのとか言い出す前に、スクアーロはぬるついた後穴に滑り込んだ。ヒクッと息を飲む音がする。
「なに…」
 いつもなら馴染むまでじっとしているのを、少し大胆に抜き差ししても辛そうではない。それどころか腕に力を込めてしがみついてくる。
「イイのか?」
「う………知らない、わかんないっ」
「いやそうなんだろ」
「や―――っ」
 そのいやは嫌のいやなのか、いい方のいやなのか。もういい方にしてしまう。
 布団に押し付けて腰を入れると、腹の辺りに濡れた感触がした。もう3度目。キツイだろう。
「やー、いぃ………ぁあう…」
「お前体力無ぇからなぁ…」
 目に涙すら浮かべてよがっている妻は、大変によろしい光景なのだが。
 本人は完全に息が上がっている。薬によって無理矢理高められた性感に振り回され、どうも出来ないでじたばたするばっかりだ。
「ふぐぅ…」
 力を失い、ぐったりしている。目は涙で潤んで、しゃくり上げるような音がした。

 すまん。
 オレもまだ若いんで。

 心の中で頭を下げながら、この所まったくご無沙汰、欲求不満だった旦那はどうにもほころぶ口元を隠しながら(どうせ暗くて見えないのに…)、不安がる妻を宥めてやった。
「なにこれーっ」
「あー大丈夫だ平気平気」





「だから、ウチのの具合が悪いっつってんだろーがぁ………ああ、ああ。別に。多分風邪が長引いてんだろ」
 ツナは旦那の声で目を覚ました。
 どうやら会社に電話をかけているらしい。重い瞼を引き上げ、起き上がろうとした腰にズキンと鈍痛が走る。
 ぱたり。
 あえなく起床に失敗したツナは横になって唸った。………辛い。
「クソ………あのクソ医者がぁ…」
 旦那は会社以外にも用事があるようだ。ぴぽぴぽ番号を押す電子音が続き、やがて荒っぽい声が聞こえてきた。
「おい、てめえ、この!」
 この間のアレがどうとか言っている。かなり激しい口調だが、
「………おう。まあ、まあなあ。う………」
 徐々に勢いを失っていく。
「別に不都合って事でもねえけどよ。ぐったりしてんだ」
 自分のことだろうか?
 しかしこれは………
「そりゃ、う………ああ………いやそういう」
 煮え切らない旦那の態度は珍しい。
 ツナはもそりと起き上がり、這うようにして部屋を横断する。
「別に悪かねえけどよぉ!ちょっと気になったんだよ!ああ心配だよ!」
 朝っぱらから大声を出すな。
 ツナは顔を顰めながらのいのいと匍匐前進を続けた。
「………なに?そういうこと聞いてんじゃねーよ!オレぁ…」

 がたん。

 ツナがたてた物音に、居間で受話器に向かって叫んでいた旦那が慌てて振り返る。
 這いつくばってはふはふしている妻を見るなり顔面蒼白になり、「おい、おま、いいから、そこ動くんじゃねえぞぉぉ!」と大慌てだ。
「ああ!また後でかけなおすからな!…期限?ナマモノだから一ヶ月で使い切れ?無茶言うんじゃねぇぇ!」
「なんなの…」
「な、なんでもねえ!」
 ガシャン、と叩きつけるように受話器を置いた旦那は、転がるツナの元にすっ飛んできた。
「オイ、お前大丈夫か、カラダ…とか」
「全然大丈夫じゃないよ………腰痛いしだるいし眠いし!」
「あぁ」
「腹減ったし…」
「わかった」
 何か作ってやるからソコ動くんじゃねーぞ!と言い残すと、やせ細ったアザラシが陸にあげられたかのように無造作に床に落ちている妻へ上着をかけ、台所へすっ飛んでいく。
 冷蔵庫を漁る音、包丁を使うトントンという音が聞こえてきたところでツナはごろりと寝転がった。
 億劫気に腕を伸ばし、座布団を掴んで折りたたむとその場に横になる。
 ひょろ長い旦那の上着はすっぽり全身を包んでくれ、朝の光がさす居間はぽかぽかとして暖かく、気持ちがいい。
 ツナはずりずり窓辺に移動し、ガラス戸を開け放った。

「何やってんだ」
 過保護な旦那である。
 寒くねぇか、風は強くないかとわざわざ覗きに来たその裾を掴んで引っ張る。
「ぁんだ」
「仕事休んだの―――」
「たまにゃいいだろ」
 起き掛けの癖につるりさらりとして、ばさばさ落ちてくる旦那の髪。

 指で3度程梳く。
 旦那はじっとしている。
 陽に透かしてきらきらしている一房を手に取ると、ツナは思い切り引っ張った。

「いでえっ!」
「腹減った」
「今作ってるだろぉ!ったく…」
 腰は痛いし、体はだるいし、眠気と空腹で機嫌も気分も良いとはいえない。
 しかしバタバタ台所へ戻っていくその後姿を見ると、ツナはなんだかとても安心してしまうのだ。


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