温泉

 

「なあ」
「…ん」
「なあなあ」
「んぁ?」
「温泉行きたい」
「またかよ?!」
 本当につい二、三週間前である。
 スクアーロは機嫌がいいのか悪いのか判断のつかぬ、微妙な表情のツナをまじまじと見返した。
「こう、何軒かまわってさあ。泊まってさー…いいよー今の季節。風情があるっていうか。山は雪あるって」
 随分気に入ってしまったようだ。
 行くまではただでっかい風呂なんて何が楽しいんだとか、何も遊ぶものがないとかゴネていた癖に、今ではすっかり温泉愛好家である。
「風情なんていう言葉がお前のこの口から出ると思わなかったぜぇ」
「ンググ」
 クイと口を摘むと、ぐーぐーと不明瞭な音で訴えている。
 普段ならすぐに手か足か文句が出るのに、大人しくしているのは――どうやら本気で行きたいらしい。



 新婚旅行以来の遠出に某有名温泉地を選んだのは、ただそこにチケットがあったから。
 予定していた旅行が駄目になった義母が、愚痴を言いがてらチケットを渡しに来たのだった。
「もう、ちゃんと予定空けておいてって言ったのに、ねえ!」
「…はあ」
 妻そっくりの顔で義母に話を向けられた時は、返答に窮したものだ。
 ツナは紛う事なき母親似である。
 小柄で線の細い所も、のほほんとした性格も、本気で怒るとそののほほんが180度転換して静かな凄みを湛える所までそっくりだ。
 スクアーロはどうもこの小柄な婦人が苦手である。
 勿論、良い人。善良な一般市民。だからこそというか。
 普段ならうるせー文句あっかコンチクショウとヒネている感情が、この義母を前にすると塩をかけられたマイマイのようにシオシオと縮み、ワケもなく生まれてきてすいませんと土下座をしたくなるような気持ち。
 これが不思議なもので、顔が激似であろうともツナに対してはそんな気には一欠片もならず逆に小突き回したいぐらいなので、恐らくは人格的な問題なのだろう。
「そういう事情だから、ハイ」
「何これ」
 ツナは手土産の大福にかぶりついたまま、渡された封筒に粉だらけの指を突っ込んでいる。
 スクアーロは中身が米粉まみれになる前にそれを取り上げ、中身をテーブルの上に出した。
「手ぇ洗ってこい、その辺で拭くな」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「大丈夫じゃない粉まみれじゃねえかぁぁ! テキトーに払うな!」
「うるさいなあもう」
「ツっくん」
「ツナヨシィィ!」
 はっ。
 母親と夫に同時に名を呼ばれたツナは、目を丸くして――
 結局テーブルの上のチケットを粉まみれの手で摘んだ。
「温泉なんてさー。年寄りじゃあるまいし」





「温泉行きたい、行こう、行こう」
「あー……」
 あれだけバカにしていたのに、分からないものだ。
「何がそんなにいいんだぁ?」
「一日中ゴロゴロ出来るから」
「……」
 それは今の状況とどう違うのだ?
 ちなみに今日は朝食の支度も掃除も、スクアーロがやった。つい先程洗濯が終了した。
(ゴロゴロしてるじゃねえか)
 思ったが、言わなかった。夫婦円満に暮らすためには、絶対に言ってはいけない言葉がある。
「掃除も洗濯もご飯の支度もしなくていいし。布団まで敷いてくれるんだよ?」
「まあ…」
 家事や雑用に煩わされないというのは、確かにある。
 どんなに散らかしても(主にツナが)ちょっと出かけたり、ひとっ風呂浴びている間にスバラシク整っている部屋とか、便利だ。
「広いお風呂で背中も流し合えるし」
「う…」
 背中を流していたのは主に自分である。
 張り切るツナに任せたら軽石で背中を擦られたので、貸切家族風呂は悪夢の時間だった。
「安い所でいいから」
 金の問題ではないのだ。
 実の所、預金にはかなりの余裕がある。
 妻は知らないし、特に興味も無いらしいので言ってないけど。
 スクアーロは世間様に少々憚る仕事をしているおかげで、結構な高給取りなのだ。
 しかし時間の融通が利かない。いつなんどき呼び出されるか分からぬ。
 仕事が入った時のんきに夫婦で温泉など行っていたら、上司に殺されてしまうだろう。
「この間休んだからなぁ…」
「温泉行くっていうのは駄目なのか」
「当たり前だ」
 ベルなどは平然と遊びに行く、と言って出て行く。
 オカマはエステツアーなどに良く行き、美容用品や洋服を買い漁り、「美しくなったワ・タ・シ」とポーズをつけて戻ってくるが、ボスの機嫌次第では無視されている。
 カタブツの変態はそもそも仕事を休むという概念が無い。
 果たして自分のそれが許されるかどうかと考えると、
「難しいんじゃねーか…」
 邪魔さえされそうだ……否、もっと怖いのは。
(ついてこられたらどーすんだ?)
 日々暗殺業に精を出す勤勉な集団も、妙に悪ノリする時があるので注意が必要だ。
 先だって取った休暇と上司の機嫌、今年の予定など諸々総じて悩んでスクアーロが出した結論は、今はまだ様子を見ようというものだった。
「後で」
「いつ?」
「だから、後でな」
「いつぐらい? 来週? それとももっとかかりそう?」
「ガキかてめえは! …半年くらいみろ」
「はんとしっ…うっ……うっ…」
「お、おい」
 ヨロヨロとその場に倒れ込んだツナは、半年、半年と繰り返しながら徐々に柱に縋り始めた。
「半年…」
「大袈裟だぞ」
「半年…」
「……ハア」

 仕方ない。
「近場でだぞ。半日で行って来れるぐらいの距離なら…」
「ヤッター!」
 ピョンと飛び上がって手を叩き、飛び跳ねて喜ぶ妻を見ていると、まあいいかなという気もしてくる。
(非番の日に隙を見て行って帰ってくれば…)
 喜び続けるツナは、満面の笑みで言った。
「お土産! お土産提灯買える!」
「チョウチン?」
「あっ」





「アホかてめえは」
「ううう」
 あれだけ熱心に、断られたらよろけるぐらい熱望していた温泉の真の目的が、土産物のミニ提灯だったとは。
「お前あれいらねえっつってたろーが。ありえないって」
「それは…言ったけど、間違ってました」
「はあ?」
「一階のおばあちゃん家にたくさんあったんだよな。こう、ずらーっと並んでて」
「提灯が?」
「すごくかっこいー」
 目をキラキラさせて隣家のミニ提灯コレクションについて語る妻。
 言葉の端々に「かっこいい」が乱舞する。
「バカだったよ…ハハハ。手にとってたのに買わないなんて」
「今もバカだろうが。何に使うんだアレ」
「飾るんだよ! 決まってるだろ! さあ行こう思い出を探しに!」
「つくづくお前、変なもん好きだよなあ……はあ」


2009.1.30


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