喧嘩
なんという朝だろう。
ツナは呆然と周囲を見渡した。
部屋の中の物はことごとく床に落ち、冬の間中真ん中に置いてあるこたつは定位置から大幅にずれ――早く言えばひん曲がっている。台所さえも荒れ放題。
旦那の気配は既に無かった。
あの野郎。
(さっさとずらかりやがったか)
「チッ…」
柄の悪い派手な舌打ちと共にツナはのろのろと立ち上がり、洗面所へ向かう。買い物に行かないと……食べるものが何もない。
鏡に映っているのは、普段のそれからは比べものにならない悪相である。
しかし本人は自分の顔などろくに見もせず、片手でおざなりに拭うと、乱暴にパジャマを脱ぎ捨てて洗濯カゴに突っ込み、部屋のタンスを漁る。
どうにかこうにか引っ張り出したシャツを頭から被り、寝癖をがしがしと掻き回し、そこでようやく――卓上の鏡を覗き込む。
ツナは絶望的な顔をして、唸る。
どうしようもない癖毛を呪う。こんな頭で出かけられないけど直すのも面倒。
壁にかけられた帽子を深く被り、財布を掴んで。
ツナは勢い良く部屋を飛び出した。
「アラおはようございますゥ〜」
「おはよう、沢田さん」
「……あぅ」
階段の踊り場で、立ち話するご近所の奥様Aと奥様Bが現れた!
咄嗟に出てしまった溜め息のようなものを無理矢理押し込めて、ツナはかろうじて笑顔らしきものを浮かべる。
「おはようございます」
彼女たちの話題は決まっている。
幾ら鈍いツナでも分かる。絶対に、これは――
「昨日はすごかったみたいですねェ〜」
「奥さん大丈夫でした? アラ…」
双方の視線がツナの右手に向いた。
其所には真新しい包帯が巻かれており、いかにもな風情を醸し出している。
「あ、えー、これは」
「旦那さん?」
「可哀想に」
「痛む? これから病院かしら?」
「それとも警察?」
(おおおい話飛ぶなー!)
「違うんです。そんなんじゃありません」
必死で首を横に振るが、まったく信じて貰えない。
「あの旦那さんがねえ……」
「まあそんな風には見えない……こともないけど」
(見えるのかよ!)
あれが知ったらどう思うだろう……あんまり気にしないか。
ツナも世間を気にしない方だが、旦那はそれに輪を掛けて興味がない。
「本当にそんなんじゃなくて」
「だってすごい物音だったわよぉ〜?」
「う…」
ひたすら縮こまってすみません、と謝る。
頭を振りすぎてくらくらしてきたくらいだ。
「ああ、いいの。そういう時もあるわよね」
「そうそう、お互い様よォ」
どうやら奥様達は『すごい物音』を咎めるよりも、中身の方に興味があるようだった。
ズイと一歩近付いてくると、ツナの逃げ道を断つように周囲を塞いで――
「何かあった?」
「どうかしたの?」
「いや…はは……ホント、くだらないことなんですけど」
好奇心いっぱいのキラキラした目が四つ。
これは言わねば通さない気持ちだろう。まったく。なんだって…
(そんなに、他人の夫婦喧嘩って知りたいかぁ…?)
原因はまったく些細なものなのだが。
「あ、すみません」
立ち話も何だから…と招待され、ご丁寧に茶まで出された。
最初こそどうしたものかと落ち着かなかったツナであるが、お茶請けに出てきたカステラが異様に美味しかったので気分が上向き、問われるままに話し始める。
「それで、原因は?」
ズバリ聞かれて、昨日の自分の思考を辿ってみる。そもそもの始まり、ってものは、確か。
「魚が、焦げるんですよ」
「え?」
「俺、何度やっても魚を焦がすんです」
「それで旦那さんが怒ったの?」
「そうじゃなくて…」
ツナは悩んでいた。
自分の料理の腕は、お世辞にも良いとは言えない。
というか、最近気付いたのだが、酷い。
(もう見ただけで不味いもん)
一人で作る昼食など、食べられたものではない。手の込んだ料理など作ると台所が崩壊する、だからやるなとまで旦那に言われている。
その旦那はと言えば――
(そういうとこ、妙に小器用なんだよなアイツ)
スクアーロはイタリア人の癖に(偏見その一)味噌汁はお出汁からとるわ、大根のかつらむきはするわ、煮物の照りについて語るわでかなりの腕前なのである。
飯を炊かせるとご飯粒は立っているし、使用済み出し昆布で佃煮を作る。しかもウマイ。
ツナがそこそこの朝食と夕食を作ることが出来るのは、そんな旦那のサポートのおかげなのだ。
結婚してからずっとそんな状況に甘んじてきたツナであるが、最近ようやく自身の料理の腕前(最悪)に自覚が出てきて、これではいかんと思いたった。
料理の本を買い込んでみたり、母親に習ってみたり……ありとあらゆる挑戦をして結局至った結論が、
「料理教室に通おう! と思って」
もうプロでないとどうしようもなかったのである。
料理の本の文面は暗号と同じ。
母親の料理はどれも美味しいが、その全てが目分量。
素人用の教室で一から基礎を習えば、なんとかなるのじゃないかと思ったのだ。
「立派な心がけじゃない」
奥様AとBは微笑ましいとばかり、コロコロと笑い転げた。
ツナの深刻な悩みも、結婚歴の長い彼女達にしてみれば些細な事なのだろう。
「それで、お許しが出なかったんだ?」
「お金がかかるからダメとかね」
「あー、良くあるわぁウチも」
ひとしきり各家庭の愚痴が出そろった所で、再び話は膨れっ面のツナに向けられた。
「…いえ。その前段階の話で」
「前?」
帰宅した旦那に、ツナは極真剣な面持ちで今の自分の身上を申し上げた。
曰く、自分は人に頼りすぎる。
料理も洗濯も掃除も買い物もゴミ出しに至るまで、全て、
「お前の世話になってばかりの人生は嫌だ!」
「ふぅん」
「このままじゃよくないと思う!」
「なるほど」
「こんな状況じゃとてもこの先やっていけない。だから終わりにしよう、って…」
「……」
奥様AとBは黙り込んだ。
そろそろ展開が読めてきたのだろう。ああ、その通りだ!
「そしたらいきなり肩掴んでガッタガッタ揺さぶって来るんだよ?! アイツばっかじゃないの!」
「てめえ……今なんつったぁぁ?」
「終わりだー!」
ツナは思い切り元気よく答えた。
旦那の気配が変わり、声が低くなった事に気付かなかったのである。
「俺、このままじゃダメになるばっかだもんな!」
「……ッ」
「ふわ!」
がつりとぶつかる勢いで、腕が伸びてきた。
両肩がミシミシいうぐらいに強く掴まれて、思わず眉を顰めた。見上げると、
「……え」
鬼が。
じゃない、旦那が。
「はァ…?」
「な、何」
豹変した旦那の形相に、ツナはただただ驚くばかりだった。
だからこんな不用意な一言も言ってしまう。
「何でいきなり怒ってんだ……よッ?!」
突然首元に腕が突きつけられる。
小柄なツナは壁際に釣り下げられるような体勢になり、苦しさに呻く。
しかしその力は強くなる一方で、止めろと言ってもスクアーロは言うことを聞かなかった。
「誰だ」
「は…ぁ?」
「誰だてめえにンな事吹き込んだクソは」
次々あげられる名前のどれもこの事態に全く関係のないものであり、徐々にこちらの怒りもヒートアップしてくる。
(なんでこんな目に遭わなきゃならないんだよ!)
その原因が自分の物言いにあるとは思いも寄らぬツナである。
「意味分かんないって!」
「オレと切れてそいつと行こうってハラかぁあ?! あああぁぁぁ!」
斬り殺してやるとか物騒な単語が飛び出してきたので、落ち着かせるために手を伸ばしたのに。
「痛っ…」
バシンと払われて、ますます強く首を絞められた。
「ふざけるな。オレから離れたら、てめえでも殺す」
「く…ぅ」
喉を絞められ苦しい中で、ツナは自分の理性の糸がプツリと切れるのを自覚した。
「だから苦しいって言ったのに…!」
ツナが渾身の力で突きだした拳は見事に、下から抉り込むようなアッパーを決め、旦那は地に……もとい、床に沈んだ。
誰がンな事言ってるんだアホか。
妙な勘違いで人の首を絞めるな。
落ち着け。
話聞け。
言いながら、一番ブチ切れていたのはツナだった。
誤解された怒りのままに、それはもう暴れ回ったおかげで、部屋は嵐が通過したかのような有様。
我に返り止めようとした旦那を弾き飛ばし、自ら台風の如く暴れ回った。
右手はその時に棚にぶつけて痛めたものだ。
「そりゃ、俺だって少し言葉が足りなかったかもしれないけど……よく聞いてれば分かる筈なんだ!」
何故料理教室に通いたい希望が、浮気を疑われねばならないのか。
まして殺すとまで言われては、ツナとて引っ込みがつかない。
「それを言うなら自分だってさあ」
ツナの見るところ旦那はイタリア人で(偏見その二)手慣れていて、結構遊んでいたようなので、テメエこそ十二分に注意が必要である。
「俺の台詞だと思う」
まあ、そうなった場合確実に息の根は止めますけどね……
ぶつぶつと呟くツナと若干距離を置きながら、余計な詮索だったと今更悟るご近所の奥様Aと奥様Bだった。
「なあ……思うんだけどよ。お前近所の連中とうまくいってねェのか?」
「うん、なんか、最近遠巻きにされてるような…避けられてるような気がするんだよねー。俺なんかしたかな?」
2011.2.17
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