洞
疲れていたところにアルコールを入れたからだろう。
元々下戸の綱吉に、これがてきめんに効いた。ふわふわと良い気持ちになり、満腹感も手伝ってずるりと体が沈む。
相手が居る前では必死に頑張っていたけれども、その時山本は部屋を出ていた。
部屋にあるのはテレビの音だけ。
とろとろと眠気が襲ってくる。
不作法は後で詫びるとして――座布団を丸めてごろりと横になると、まぶたは開けていられない程重くなる。
テレビに混じる波の音に、さらりと乾いた板間の感触。
あの時と同じだ。
(かあさん…)
帰ってきたのだ。二人で暮らした場所に。
其処で初めて安堵に近い感情が沸き、息を吐く。何を心配する事がある?
古い家を見た。少し、思い出せたか。なにより友人に会えた。
酒臭さにくすりと笑って、綱吉は眠ってしまった。
母の夢を見た。
明るく快活な女性だったが、思い出すのはいつも穏やかな笑みを浮かべている母だった。
記憶の中の母はいつも家事をしている。
掃除も洗濯も食事の支度も、いつも楽しそうにしていた。
自分は全然良い息子ではなかっただろうと思う。
手伝いもロクにせず、時折乱暴な口をきいて、我が侭ばかり言っていた――
思い起こせば後悔だらけだ。
何もしていない。自分は母に何もしてやれなかった。優しくも、良い子供でもなく、大人になったと思っても、いつも自分の事しか考えていなかったから。
だから、遠くへ行ってしまったのか。
遠い場所にある背を追って走る。が、遠すぎる。いつまでも距離が縮められず、苛立ちだけが募っていく。
なにかこれだけは言っておかなくてはという気持ちになる。
(かあさん、俺、戻ってきたよ)
(俺は今、島にいるんだ。ずっと昔住んでた、あの…)
(かあさんの島だよ)
遠い、小さな背中に向かって叫ぼうとした時、その顔が振り向く。
母は。
いつも笑っていた母は――
目が開けられない。
凍り付いたように動かない体に、冷たい汗がたっぷりとまとわりついている。
(つめ、たい)
まるで海から上がった後のように怠い体は腕も足も、指一本でさえ動かせず止まっている。
不思議なのは、目を閉じているのに部屋の光景は良く見える事だ。
ぐるりと見渡すと、違和感の正体が分かった。
(なんだこれ)
天井が見える筈なのに、逆に自身を見下ろすような視点に綱吉は立っていた。
それに――見えるのは自分だけではない。
(山本?)
先刻部屋を出て行った筈の山本が、すぐ側にぼうと突っ立っている。
その視線は眠り込む自分を捉えており、動かない。
(どうしたんだ、一体)
声は、勿論出ない。そう言えば音も聞こえない。
様々な事がおかしいのに。
横たわった綱吉はまるで間抜けな表情で眠り込んでおり、この異常に気付く様子はない。
(山本…)
広い背を、同じ場所から見つめるしかない。
顔を覗き込む事は出来ないので、その表情は分からなかった。ただじっとして、動かないその背を。
唐突に、それがしゃがみ込んだ。
友人は寝ている自分の側に膝を着き、じっと様子を窺っている。
その探るような気配に押され、ぞくりと震えが来た。何。
(何で…)
唐突に山本は寝ている自分の腕を掴み、ごろりと床に転がした。
あれほど動かない、動けないと思っていた体はいとも簡単に体勢を崩し、だらしなく緩んだまま喉を逸らせた。
「おい」
低い呼びかけにも、答えない。目を覚まさない。
「寝てんのか?」
大きな手が喉に伸び、触れて、そのまま下に降りていく。
骨の浮いた胸元で手を止めると、山本はポケットから何か小さく光るものを取り出し、皮膚に当てる。
それは刃先の細いナイフだった。
「ツナ…」
最後確認のように呼びかけ、山本は刃を横に滑らせた。
(痛い)
ほんの少しだけ、子猫にひっかかれたような痛みが走る。
なんでこんな事をするんだ。
其処で初めて寝こける自分の顔が、僅かに歪むのを見た。
傷つけられた。
血が出ている。
取り出した布でそれを丁寧に拭き取りながら、山本は下の自分ばかり気にしている。俺は此処に居て、見ている。何をしていると叫んでやりたいのに。声が出るものなら。
「これ残るか」
残ったら可哀想だなぁと他人事のように呟きながら、傷を間近で見つめている。
「白いから目立つな。あーあ」
そう言うと山本は、やや間を置いて口を開け、ぺろりと傷口を舐めた。
2010.5.21 up
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