会いに行く

 

 社内結婚だった。
 出会いも何もあった物ではない。部署が違うので、多分面と向かって顔を合わせたのは忘年会とか、そんな所だろう。
 妻はなんでも正直に喋るタチで、なんだかさえない人だな、と思ったのだそうだ。
 年齢が同じ、学区が違うがまあまあ近所に住んでいたこと、おおざっぱな地元ネタで話してから、あまりに会話がへただったので営業には向かないわ、とも思ったらしい。
 それがどうして恋愛感情に結びついたのか分からないと笑っていた。結婚後も綱吉は変わらず、仕事熱心になるとか逆に趣味に走るとかいうこともなく、本当に平均以上でない生活を続けていた。
 離婚の理由は未だに分からない。
 互いに何か違うね、と言って分かれたのだ。妻を好きだったし、大事にしたいと思っていた。相手も自分を好いてくれ、大事にしてねと笑っていたのに。
 どうして離れたのだろう。
 ただ、離れてほっとしたのは事実だ。

「料理はうまかったよ。和洋中なんでも美味かったなあ。弁当も作ってくれたし」
 どうして車内に引き続き、ここでも元妻の話などしているのだろう。
 答え。山本が聞きたがったからだ。
「嫌、ってか困ったのはさ、遅くまでテレビ見てると早く寝なさいって怒るんだけど、その怒り方が母さんそっくりなんだ」
 だから聞かれてもいないのにすらすら口から言葉が出てくる。
 当然だ。さっきまで予習してたんだから。
「一人のが気楽だよな」
「それは違いない」
「オレんトコはさー、アレだ、一日十回は褒めないと機嫌が悪くなるタイプ」
「十回…?!」
「ただ綺麗って言うだけじゃダメ。花に例えんならその都度違う種類じゃないとダメ。目を見て言わないとダメ」
「う……」
「や、言うのは良いんだけどよ。でもオレがそう思ってない時にまで言わないとなんないのかって話」
 どんなに似合って無くてもとりあえず褒めろというのは無茶だと言う。
「本当に心底思った事を口にしてくれっつーても、マジで正直に言うと怒るし」
「何言ったんだよ、山本」
「オレそれ嫌いだ。下品すぎるって」
「それは…怒られるな…」
「なんつーか、あからさま過ぎて風情がねえよ。どっちかってーとオレは」
 それは多分前の奥さんも同じ事を山本に言いたかったに違いない。
 綱吉は曖昧な笑みを浮かべてチップスを摘み、コーラの最後の一口を煽った。
 本場のチップスは普段食べているものよりしょっぱい。
「あー…メシどうする? どっか食いに出るか」
「山本酒飲んで――っていうかそれ以前の問題だよね。俺、こっちで車動かす自信無いし」
「じゃあ弁当頼むわ」
「あのさ」
 さきほどちらりと見えた冷蔵庫の中身は意外と充実していて、かごにはパンやフルーツがあったので、さっきの話と綜合してその弁当屋もしくは料理屋さんが用意しているのだろう。
「何か材料調達して貰えないかな? 簡単に焼けるハムとか卵とか。朝俺作るね」
「……ツナ」



 息苦しさに耐えかねて漏れたような声だった。
 何気なく視線をあげて、ぎくりとする。なんで今。
「悪、い……ちょっと。こっち、来てくんねえ?」
 ソファーに深く腰掛けたまま、遠慮がちに言われた。
 逆らえる人間がいるだろうか。
 綱吉は缶をテーブルに置き、そっと立って、隣へ座ろうとした。
「いや、こっち」
「山本」
 見知らぬ空間での疎外感、ぎこちない空気、至る不安。
 さっきまで感じていた全部を一度取り払い、リセットした後だった。
 思い出話をして炭酸を飲んで、そんな事は大人には造作もないことである。いや、そうでありたいと願っているのか。
「だって。オレからそっちいけねえし」
 初めこそ折角俺頑張ったのに的な、どうでもいい意地10%と多分な照れ90%でいやを言おうとした綱吉だったが、拗ねたような声で横を向くという高等テクニックを目の前で披露されてはひとたまりもなかった。
 覚悟を決めて怪我をしていない左足に、あまり体重をかけないようにして乗る――乗りかけ、の時点で手首を掴まれ、引かれて体勢を崩す。
「あぶなっ…!」
 自分の事ではない。
 怪我がと焦る綱吉の腕を取って、その油と塩で汚れた指を山本はぺろりと舐めた。
「山本…」
「ごめん。迷惑だったよな」

 そういう事ではないんだと、熱を込めて説けるほど自分に勇気があれば良かった。
 またあの時と同じ言葉を繰り返してしまう程追い詰められている山本が、こんなに弱い綱吉でなくとても強い誰かを好きになれば何の問題もなかったのだろう。
「山本が、怪我したって聞いて、びっくりした」
「ああ」
「あの時の事思いだしたよ」
「オレも」
 医者に診断を告げられている間ずっと考えていたのだという告白は、別の意味で心臓が痛かった。
「あん時は練習のしすぎだったよなぁ。試合中じゃなくて」

 今でも思い出すと息が止まる。
 綱吉の安易な気持ちで出て行った言葉が、最悪の結果を引き連れて戻って来た。
 後々山本は絶対に、まったく、どう考えたってツナのせいじゃねえよと言って笑ってくれたが、無論心底そう思っているのだろうが――
 綱吉自身はそう思っていない。
「ガキだったからな。全部終わりだと思ったんだろ」
 野球が出来なくなったと絶望して、学校の屋上から身を投げようとした少年は無事復帰を果たし、才能と、熱意と、血の滲むような努力の末とうとう夢を叶えたのだ。
「本当バカだったけど、あれで今思うわけ。こんな怪我ぐらいで一々止まってらんねーっての」
「山本」



 多分、あれだ。違ったのだ。
 身を乗り出しかけていたクラスメイトを止めようと、綱吉は我を忘れた。
 自分のバランス感覚のなさとか運の悪さ、不器用極まりない身の処し方などを全部後ろへ吹っ飛ばして掴み掛かり、結果突き落とす形になった。
 下に柔らかい植木があったから助かったのであって、でなければ大惨事だ。二重三重にすまない。
 謝る綱吉に、山本はどこか吹っ切れたような笑顔でオレこそごめんと謝って。
 それで――終わる筈だった。

 終わらなかった。
 後から思い返す度綱吉は自分の気持ちの重さにぞっとする。
 あれでもう決まってしまった。
 その出来事以来山本はツナ、と他とは少し違うように呼び扱ったし、綱吉は綱吉で、駄目な自分と接点など到底無いように思えるクラスの人気者をばかみたいに崇拝するのは止めた。
 唐突に、霧が晴れるように分かる。
 距離を掴みかね、不自然に近付いたり離れていた中学。
 離れた反動で勢い良くぶつかって、引き返せない所まで来た高校時。
 意識して離れようと、関わりを絶とうと必死だった大学生活から今に至るまで、何故この男との時間を後ろめたく思ってしまうのか。
 世間体だとか常識のせいにして、あえて考えなかった部分を真正面から見せつけられて逃げられない。単純な話。
 この男と友人になりたかった。初めて見た時から、初めて言葉を交わした瞬間からそう願っていた。過ぎた願いだと分かっていたから否定しつつも、憧れていた。
 でもそう願って近付いて歩んで、辿り着いた先が近すぎた。
 抱いた感情は友情とはかけ離れたものだった。
 独り勝手に重ね合わせているだけなら、まだ。
 鏡のように、息を合わせたタイミングで二人の気持ちは同時に変化している。多分今もそうなのだろう、でなければ――

「どうする?」
 顔を上げたその目が熱っぽい。恐らくこっちも同じだ。
 みっともないほどに欲している。
 互いに。
 深い闇の底に落ちていくような絶望がある。同時に、なんという歓喜。
 寝室へ行くか、ここで。
 言葉に出すとえらく恥ずかしい。が、望みは即座に叶う。指先が熱をもった肌を撫で、唇に濡れた感触が触れる。


2011.9.7 up


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