01.

 

 潮の香りがする。
 強い風に煽られて、体がぐらりと揺れた。
 頼りなさに違和感を感じて腕を見る。棒きれのように細い腕。生白い、血管の透けて見える腕。
 なんだっけ。
 頭がぼんやりしている。鈍い思考の中で目を凝らし、『違う何か』を見つけようとするが駄目だった。答えは浮かばず、風で体が冷えていくだけ。
 見覚えのない景色。
 ずらりと並んだ倉庫に、等間隔に建つ外灯。
 たぷたぷと岸壁に打ち寄せる波――海。
 ああ。ではこれは海水なのだ。
 潮臭いのは風と自分と両方。こんな生ぬるい風で震える程寒さを感じているのもそのせい。
 ここには居られないな。
 全身をびっしょりと濡らしたまま、少年は灯りに向かって歩き出した。



 行けども行けども見知らぬ景色だった。
 延々と続く倉庫街の灯りは、常に片側に偏っていた。
 今進んでいるこの向きで、海側である右は扉の番号のみ照らした倉庫。
 反対側は店がずらりと並んでいて、開いているのも閉まっているのも照明で照らされている。派手な英字のネオンを掲げる大きな店も見える。
 浮かび上がるたくさんのドアの中に、一つだけ小さく目立たぬ入り口があった。
 他の店は客を呼び込むために様々な努力をしている。それは独創的なネオンの形、他より少し明るい照明や、戸口前に出されたメニューボードなどで見て取れる。
 しかしその店だけはひっそりと隠れるように、路面より少し奥に入り口があった。
 ドアにかけられた看板も小さいし、この暗さではぎりぎり文字が読めるかどうかという程度。その上に小さな明かりが一つきり。
 ふらりと足が向いた。
 何の店だろう。
 女が居るような店構えではない。
 単なるバーではなく、もっと秘密めかした雰囲気を持つ重そうな扉。どちらにしろ酒を呑ませる店じゃ、この体では門前払いが関の山か。
 流れる思考に僅かな引っ掛かりを感じながらも、ドアに手をかける。
 空気の動く音がした。





 カラン、と重たげな鈴の音が響く。
 他に客はいないようで、店主と思われる男が一人グラスを磨いている。
「……いらっしゃい」
 カウンターの奥から聞こえてきた無愛想な声に、周囲を探る目線を移す。
 瞬くと細長い人影が一瞬揺らぎ、やや影を背負って浮かび上がった。

 店主は背の高い、痩せた男だった。
 乱れ気味の長髪を束ね、磨かれた台の向こうから胡乱な眼差しを投げかけている。
 タイ無しの深いグレーのシャツに黒いエプロンという格好は、正式なものからやや外れている。しかし――
 だらしないわけではない。
 不潔な印象も、容姿が劣るというのでもなかった。
 ただ其処に馴染んでいない、そんな気がする。
「あんた……客か?」
 ぞんざいな口調である。その目を見て納得した。
 この男の目つきは相手を睨み付けているようで、まるで接客に向いていないのだ。
 しかし威圧感などは感じず、戸惑っているというのが見て取れる。大きな目はそのまま男の感情を映し出す。
 頬に傷があった。
「さあ…」
 曖昧な返事に、相手の顔が歪む。
 怒り出すかと思ったが、店主は無言でタオルを差し出した。
「どうも」
 受け取って使う間、さりげなくカウンターや棚の酒、揃えてあるグラスを見る。
 目立たない店というのはそれなりに理由があったようだ。
 あるものは全て一級品。しかも酒だけでなく、店の内装やグラスの一つに至るまで。気軽に入って欲しくないと、店全体が言っているような。
 唯一この男だけが似合わない。
「ありがと」
「お前これ……」
 海水じゃねえか。海入ってきたのかと矢継ぎ早に喋りながら、男の目が初めて真正面から合った。
 ぬうと腕が伸びてくる。
 いつもなら反射で引く。が、体は動かなかった。
「冷えてんな」
 頬に触れる手は乾いていて温かく、冷えた体に気持ちいい。
 思わず目を閉じると、指が動いて首を下りた。肩に置かれた手に、ぐっと力が入る。
「何しに来たんだ、お前」
「……」
 分からない。気付いたら此処にいた、と。
 言っても仕方がないだろう。
「酒出せるトシじゃねぇしな。分かってんだろ。それとも……」
 口調が濁る。
 それは急な変化で、思わず目を開いた。店主は横を向いていた。
「……誰か待ってるのか?」
 窺うようなその色を見たその時、気付く。この店に感じていた違和感の正体。
 席数は三十にも満たないのに、通路が広すぎる。
 カウンター脇にドア。奥にドア。入ってすぐ入り口脇のドアは多分飾り。ドアが多過ぎる上、訳の分からない造り。
「どうして?」
 逆に尋ねると、店主の目から熱が引いた。表情が消える。
「用が無いならさっさと出ていけ。ここはお前みたいなガキが来る所じゃねえ」
「成る程、ね」
 馬鹿馬鹿しい話だが、その瞬間オレは子供なのかと納得した。
 靄がかってはっきりしない立ち位置が、今決まったような気がしたのだ。
 頭の霧がすっきり晴れた、そんなような気持ちだったが――
 店主はそうは思わなかったらしい。
 一瞬カウンター裏に滑らせた視線が、何かあると教えていた。
 この店はみかけよりずっと、まともじゃない。
「それ」
「はぁ?」
「何?」
 ぐいとカウンターに乗り上げて中を見る。
 客席から死角の位置にモニターが設置され、外の様子が映し出されている。その横にはボタンが並び、意味ありげな番号が振ってあるときた。



「てめぇっ…」
 呆然とする店主の顔を見て、思ったよりずっと若いのに気付く。下手をすると三十に届かない……ぐらいか?
 口端を吊り上げて笑うと、その目に浮かぶ警戒の色は一層強くなった。
「オレ、ガキだからさ。こういう事するんだよ」

 

 

 

 

2010.4.20