02.

 

 なんだこいつは。
 入れなければ良かったと後悔してももう遅い。店の入り口を閉じる三番目のボタンは余程の大事でないと押さない事になっている。手入れが入るとか、その他招かれざる客の乱入等々。
 判断が――鈍った。
 こんな無愛想な店でも、なんてことない普通の客が入ってくる時がある。
 そういう場合は慌てず騒がず、普通に酒を出せば終わる。どんなに図々しい客も、会話どころかロクに返事もしない店主に腹を立ててさっさと帰るからだ。
 今は、そのどちらでもなかった。
 少年は闇に紛れて入ってきた。照明の届かぬ道の外側を通ったか――気付けばドアの前に居て、判断を下す前にするりと入り込んできた。



「ッ…!」
 カランカランと音を立てて、店のドアが開いた。
 入ってきた客の顔つきを見れば、用事はすぐに見当が付く。のんびり店を見渡すようなら普通の客。けど――
「あ……」
 青ざめた顔色。強く握り締めた拳。
 真っ直ぐに店主である自分を見つめ、『どうしたらいい?』と切に問いかけるならば、それは。
「あの」
「此処でよろしいですよ。奥へどうぞ……今開けます」
 ボタンを押す。
 この行動にはドアの鍵を開けるのと、"カモが来た"事を知らせる為と二つの意味がある。
 カウンターを中から開け、他より少し小さなドアを開けて手招く。惑う時間は取らせない。
「どうぞ」
 愛想はいらない。
 励ましの言葉も、相手を安心させるための嘘も必要無い。
 この場で客が身を翻そうと、追う必要はない。
 最も重要な仕事は、ただドアを開けるというだけ。
「う…」
 客の額に汗が噴き出す。
 ちらりと視線を逃がした先に、あいつが。
「どうしました。今日は止めておきますか?」
「……いや」
 少年はいつの間にかカウンターから降りて、また元の席に戻っていた。
 てっきり興味津々で覗いているだろうと思ったが、視線を背け手元の煙草を弄っている。
「帰りは…」
 一段下りた所で振り返った、その形相を見るだけで、男の負けが目に見えた。
 完全に飲まれてやがる。
「その辺は中で聞いて下さい。それじゃ」
 殊更無愛想に告げて、ドアを閉めた。



 また一人送った。
 扉が閉まればいつも通り、なんて訳にはいかない。しかも今回は妙なガキが居る。
(なんでオレは…)
 このガキに、ドアが開く所を見せたのだろう。
「…あっ、てめえこの」
「うん。一本貰った」
 手ぶらのびしょ濡れで来た癖に、なんで煙草なんぞ持ってやがると思ったら。
「オレのじゃねえか!」
 慣れた手付きで点け、ふかす。小憎らしい顔を睨み付ける。
 カウンター下に置いてあった筈の煙草は、残り三本。
 一本点ける。
「フーッ…」
 煙を吐き出すと、一度は波だった心が凪いでくる。
(ガキ……だよな)
 他に客の居ない、空の店で子供と二人。異様なシチュエーション。
 変わっているのはこの状況だけではない。
 少年は――十四、五だろうか――かなり目を引く容姿をしていた。
 妙に肝の据わった態度に相応しく、動揺のない目。
 すましていれば端正な顔立ちをしているが、眼が強すぎる。
 見据えられると動けなくなるような。
 細身の体にまとわりつく濡れた衣服。それは良く見ると制服のようだ。
 最も目を引くのは、彼の頭髪が色を抜いたような白である事。それも染めたものではない。
「お前、名前は」
 其処で初めて少年は表情を変えた。
 不貞不貞しい余裕面から、僅かだが戸惑いを覗かせる。
 親に叱られるとか、そんな理由で名乗りたくないのかもしれない。
「おい」
「オレは……赤木」
「アカギ?」
「赤木しげる。あんたは?」





 少年の運んだ潮の香は、どこか懐かしさを感じる。無邪気に海に入る年頃などとうに過ぎてしまった自分には。
(なんだこの状況…)
 誤魔化そうとするなら、即行で追い出してやろうと思っていた。
 しかし嘘をついているような気配は無く……というより、まるでそれで安心したかのように、相手は笑った。
 酷く穏やかな表情だった。
 つられて返事をしてしまったのはそのせいだろう。
「伊藤、開司だ」
「カイジさんか。よろしく」
 なにがよろしくだ、バカ。
 苦々しい思いで目線を逸らし、手入れの続きをしようとグラスを掴む。
 しかし考えに反して手は勝手に湯を沸かし始め、冷蔵庫を探り、ミルク入りの甘ったるいコーヒーを作っていた。
「ほら」
「……」
 湯気と共に甘い香りが立ち上がる。
 アカギと名乗った少年は無言でそれを口に運び、一瞬後鼻の頭にシワを寄せた。
「甘い…」
「文句あんなら飲むな」
「カイジさん」
 カップを持った指は細く、その顔は子供だ。
 あどけないとさえ言える表情なのに、目だけが唯一ぬるりと光る。
「そこ、オレも行きたい。入ってみたいんだけど」
「馬鹿。怖ェ所だぜ」
 頭ごなしの否定にも怒らない。まったく、らしくない。
 ふ、と口端だけの笑みを浮かべ、アカギは言った。
「博打…」

 ざわりとする。
 こいつは何だ。
 得体が知れない。ただのガキじゃない。嘘は効かない。

「お前なぁ……金なんかねえだろうが」
「支払いは金だけ?」
 アカギは笑っている。
 全て分かっているような笑顔。遙かな高みから、呆然とする自分を嘲笑っているかのような……
 いや。
 もう一度、ゆっくりと視線を合わせ、瞬く瞳の色を探る。
(違う)
 少年は此処に居て、自分の言葉を待っている。
 その細い肩も生乾きの髪も現実。なら、大人のする事は決まっている。
 吸いさしを乱暴に灰皿へ押しつけ、煙と共に吐き捨てた。
「どっちにしろ今日はもう店仕舞いだ」

 

 

 

 

2010.4.20