◇
「大丈夫か?」
内心の動揺を隠して、あくまで平静を装って尋ねた言葉に。
男は無言で笑みを返した。
「…そっか。それじゃ」
「待てよ」
吊り上がった口元。
笑顔というにはあまりに悪辣な表情に、ぞくりとする。
「なに…何、だ」
「あんたの番だろ」
喉元を押されて、反射的に仰け反った体にがつんと足が当たる。
蹴られたのではないらしい。全身を使って抑え付けられているのだと気付くと、背中を冷たい汗が伝った。
「いいって俺は、ぁっ……痛え!」
腕をねじり上げられ、凄まじい力がかかる。
相手はやり方を心得ているようで、幾ら手足をばたつかせても拘束が解かれる事はなかった。
「クソ、離せ!」
わからないなと男は呟いた。
すっかり平坦に戻ってしまった声で、耳元に囁いてくる。
「あんた、慣れてる訳じゃないんだ」
「気色悪い事言うな…ッ」
触れ合っている部分がやけに生々しかった。
一枚隔てていた筈が、いとも簡単に剥がされて喉元に刃を突きつけられている。また。
また俺は失敗したのか。
気付いたら手遅れなんて事、何度繰り返せば気が済むのだろう。
「面白いね」
「何が」
問う事しか出来ない。
焦りが表に出てしまっている。
敏感に察して、男は腕にますます力を込めた。
「なんとなく、見当がついてきたってこと」
「そんなもん」
微かに違和感を感じたものの、濡れた感触が口元や喉、耳の辺りを這い始めると消えてしまった。
意識が白く焼ける。
ぎちぎちと重ねて抑え付けた腕の痛みも、絡んだ足の固さも全部吹っ飛ぶ。
「舌出してみて」
馬鹿正直にべろりと出した舌を、男の口がやんわりとはむ。
口の中を触られると駄目だった。
「う…」
力が抜けて腰が落ち、相手はますます興に乗って口付けを深くする。
唾液は煙草の味がした。
信じられない。最初は嫌でたまらなかったそれを、今では抵抗無く受け入れている。そればかりか、
「正気じゃねえな」
熱を散らすように、カイジは顔を背けて呟いた。
湿った土の匂いがする。
雨の音に重い瞼を開けると、板張りの天井が目に入った。
「っ……てえ…」
カイジは痛みを堪え、そろりと半身を起こした。
落ちているシャツを手に取り、片腕を通したものの――それ以上動けなかった。
暑い。
夏が近いせいだろう。雨がぬるすぎて温度が下がらない上、湿った空気が部屋をますます暑く感じさせている。
ぐるりと首を回すと嫌なものが目に入った。
例の男は自分の腕を枕にし、背を向けて寝ている。
動いてない。息、してるか? それとも死んでるのか。
声をかけても返事がない。
「……おい」
なんだか心配になって転がしてみる。
(寝てんのか、これ)
その頭髪は色を抜いたように白い。
蛍光灯の下で見た時は染めているのかと思ったが――
根本までそれだから、どうやら違うらしい。昼間の光に照らされたその顔は昨晩の印象よりも更に若く、寝顔は子供のようだった。
(変な奴)
前髪をかきあげ、生え際をまじまじと見ていると、瞼が開いた。
「……うわ」
「なんだよ」
その髪と同じ、色の薄い目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「オレ、寝てた?」
「そんなもん自分で分かるだろう」
訳の分からない事を言う奴だ。危ない。
これ以上関わりたくない。
さっさと手を離すと、痛む体を無理矢理曲げて服を着た。
その間中視線が背に張り付いているのを感じながら。
最後、服に埋もれていた目当てのものを掴み、立ち上がる。
「なあ」
振り返るのが、少し怖い。
部屋の隅、畳の上に無造作に置かれた札束。見れば昨晩自分が支払ったものだけではないようだ。積まれた札束の中には埃をかぶっているものもある。
古ぼけた部屋に似合わない大金。
更に不釣り合いな、得体の知れない男。
「何」
「今度また顔見せて。オレが居る時に」
「冗談じゃねえ」
即答に首を傾げ、不思議そうな顔をする。
自分の所行に心当たりがあれば、絶対にしないであろう仕草だった。
「なんで」
「てめえとは二度ツラ合わせたくねぇよ…っ!」
「は」
相手は一瞬真顔になり、唐突に笑い出した。
それは驚くほど快活な笑い方で、それだけで男の持つ夜の空気が消え、人懐っこい雰囲気になる。
苛立ちのままに舌打ちした。
妙に落ち着かない。肌を合わせている時より入り込まれているような気がした。
「……じゃあな」
「うん。またね、カイジさん」
なんで名前。
ギリギリの所で振り向きたい衝動を抑える。
ロクでもない記憶が戻る前に、さっさと部屋を出てしまうべきだ。そう、世の中には関わらない方が良い奴が居る。掴まれたら最後引き摺られ、底まで沈む。そんなような人間が。
「次はもっと、面白いもの賭けようぜ」
< □
2010.6.4 |