「風呂に、行こう」
「えええーっ」
ツナがびっくり仰天している。千種はしきりに眼鏡を押し上げる仕草をして、洗面器を持ち直した。
「ど、ど、どうしたの千種?どういう風の吹き回しだよ」
どんなに誘ってもつついても脅しても一緒に大浴場へ行ってくれなかった千種が、自ら風呂にと言ったので、それはもう驚いている。
「気が向いた」
「へええ………そーなの」
じゃ、いこっか、とごく軽い調子でツナは準備を始めた。
そのちょこまかした後ろ姿を見ながら、千種は何かに耐えるような顔で俯いた。

流石に外国帰りで、漢字に疎くなっている千種も、少し考えれば分かる。
「綱吉」は「こうきち」とも読めるが、「つなよし」とも読める。というか、こうきちと読む方が少ないだろう。
あまりのショックとタイムリーさに千種は頭がぐわんぐわんしたが、ふと気付いた。
ターゲットは男であり、ツナは女だ。偶然、数十万分の一の確率で同名もあり得るだろう。
そっか、よかった、ツナ違うやー。
………とは問屋が下ろさない。
千種はツナを女だと思っている………が、実際見た訳ではないからだ。
胸は本人の言うとおりぺったんだし、下半身をまじまじ見るような無礼は、犬ならともかく自分はしない。
確かめるためには直接、当たって砕けるしかないのだ!





悲壮な決意を固めた千種は、さっそく脱衣所で決意を撤回したくなった。
キャハハ、ワーワー、騒がしいそこかしこにまだ未成熟とはいえ、しっかりすっかりでっぱった体がある。
「………うっ」
「千種?」
犬なら涙と涎と別のも流して喜ぶだろうが、生憎こちらは苦手の苦手だ。
ふらふらと顔を上げれば、ツナが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「大丈夫」
「そうか…?」
蒼白な顔色でのろのろと服を脱ぎ出す千種に、ツナも続いた。これがまるっきり子供の脱ぎ方で、衣服は裏返ったままぽんぽん脱衣カゴに入れられる。
「先行くからなー!」
「………うん」
千種は丁重に帽子と眼鏡を外した。

広い洗い場に場所を見つけて、ツナが椅子を並べている。かがむとあばらがくっきり浮いて、痩せた体だ。
千種はそっと隣に腰掛け、シャワーで体を流した。いつもなら冷えた体が温まり心地よいと感じる時間だが、今はそれどころではない。
横を剥けばオエッとなるし、ツナを見るのは危険だ。いや見なければ確認できないのだけれど、なにしろツナは胸は無いし痩せて棒のようだし足はまっすぐだし………
「入らないの?」
「は、はい、入る」
ぼたぼたと湯を滴らせながら2人は湯船に辿り着き、足を入れた。うおっ、とか言って飛び退いてみせるツナはいつもよりずっとはしゃいでいて、一緒に来て良かったなあとも思うのだが、それ以上に千種は困っていた。

確認、しなければ。

湯煙と眼鏡がないせいでぼんやりと霞む視界で、正面にツナを捉える。何の意識もせずに(当たり前だ!)きょとーんとしている顔が大写しでアップになり、千種は仰け反った。
「わーなにやってんの危ねー!」
「ごめ、ん」
慌ててツナが掴んだ手と足と絡まって、2人は派手な水しぶきを上げて湯船に頭から突っ込んだ。

「アハハハハハ!」
「なんなのー!」
周りに明るい笑い声が響く。湯からザバアと頭を出した2人は照れたようにコソコソと隅へ行った。
「は、はずかしー」
「…ごめん」
俯いてぼそぼそという千種にツナは気にしてないよーと笑ったが、

本当はもっと別のごめんなさいだった。





それはもう、多大なる精神力を費やして確認した、できた。
ツナにあれはない。
一瞬だけで後は目を瞑ってしまったが、ちゃんと見た。しかも、絡んで転んだせいで触ってしまった。ああ申し訳ない。ごめんなさい。





「………あがる」
「えっもう?!洗わないのかよ?」
「部屋で………」
フラフラしながら出ていく千種を、ツナは風呂道具を持って追いかけた。

 


 

「千種が風呂行かないのって、のぼせるから?」
「………ん」
「大変だねー」
大変だ。ああ、大変だ。
部屋の浴室(ユニットバス)で体を洗いながら、千種は半分泣きそうになっていた。異常事態である。

どうしたらいいのかわからない。

胸の奥がもやもやして、息苦しい。急いで石鹸を流し、頭をぶるぶるっと振る。

気分が悪い。

タオルにくるまって部屋を出ると、ツナが心配そうに見ている。彼女もまた体を洗わず飛び出してきたので、半端に濡れた髪がぴょんぴょんしていた。
「入って」
「う、うん」
促されて浴室に入りかけ、しかしそのままで止まる。なにしろ苦しそうな千種の顔色はどんどん悪くなっていくし、これは本気で病院ものだ、明日まで間に合わなかったら救急車呼ばなきゃ………
「千種っ」
「…ぐ」
パジャマに着替えたばかり、ゆっくりと体を気遣う動きで髪を拭いていた千種が突然胸を押さえて蹲る。ガターンと簡易洗面台の上の物が落ち、転がった。
「どうしよう、誰か…」
「よ…ぶ、な…」
はあ、はあ、荒い息。青い顔に冷や汗、がくがく震える手足。

オロオロするツナを、千種はやや乱暴に無理矢理浴室に突っ込もうとしたが―――間に合わなかった。
「………ぁぐっ!!」
全身が痛む。
これは、病気などではない。千種はこの症状を知っている。
副作用だ。
初めて薬を打った時、体験した。時間にして2、3分ぐらい。けれどもあまりの苦しさに1時間にも思われたあの辛さ。
しかし体の辛さよりも気にかかることがあった。
(おかしい………期限、まだ………)
ようやくベッドに背を預けられる位置に来た。
途中から助けてくれたツナは、負けないくらい青い顔で此方を覗き込んでいる。
(よりによって今か………!)

「おおわっ?!」
歪んだ視界が更にチラつき、ついに耐えきれず千種は前に倒れ込んだ。丁度、正面にまわっていたツナを押し倒すような体勢である。
ドクン、ドクンとお互いの心臓の鼓動が響いてくる程近い。千種のそれも、ツナのそれもとても早くうっていたがやがて、徐々に静かになっていった。





痛みが引いてきた―――
ほっとして、千種はノロノロと体を起こす。まず謝らなければ。
びっくりさせてしまったことをツナに―――

「ごめん、大丈、夫…」
掠れた低い声が出て、思わず千種は口元を抑えた。
ぽかんと口を開けて硬直しているツナ。その、驚きの理由が分かるけど分かりたくない、見当はつくけどつけたくない、誰か嘘だと言ってくれ!(割と切実に)
しかし願いは聞き届けられる事はなく、目の前の顔がくしゃりと歪んだ。うえっ、と今にも泣き出しそうな嗚咽を漏らし、ツナはがたがたと震えだした。口ぱかっと開く。
「ひっ…」
「静かに!」
叫び出しそうな口元を手で塞ぐ。もぐもぐむにゃむにゃしながら、その接触にツナは恐怖の眼差しを向けてきた。
ずり、と尻が後ろに下がる。
「ツナ」
「や、なん、なんで」
「落ち着け」
「ひっぐ………う」
なにもしないからとか静かにしないと人が来て困ったことになるとかいろいろいろいろ言いたい言葉はあるのだけれど、喉に詰まってうまい具合に出てこない。ツナもまた、パニックを起こして目をみはってぶるぶる震えていて、それでも何とか、
「フンギャッ」
自分で口を押さえてくれた。今この状況では心底ありがたい。
もう拝むような気持ちで固まっていると、ツナはようやく飲み込み飲み込み、口を開いた。

「なんで―――なんでなんでなんで!!??ちくさ、どこ行った、んだよ!お前誰だ―――?!」
「千種、だから」
「うそうそうそ!お前何なんだよどっから入ってきた警察呼ぶっ………」
「やめろ」
落ち着かせようと手を伸ばすが、触れる寸前でツナは身を引いた。
無理はない、分かる、のだがショックだ。
「千種」
もう一度、辛抱強く繰り返す。うろうろと彷徨っていたツナの視線がようやく定まり、喉から漏れるひく、ひくと引きつったような音も止む。
「千種?」
「うん」
「だっ………て」
「………うん」
だがその声量は次の瞬間倍ぐらいになっていた。


「なななんでお前オトコんなってんだよおおおお!や、やだ!きもちわるい!!きもちわるいこっちくんなー!」


きもちわるい………
がーんがーんがーん。千種の頭の中は10トンの鐘を落とされたような有様だった。あまりのショックに表情を取り繕うことも出来ず、あからさまに取り乱してしまう。

一瞬にして幽霊のような顔色になった千種に、ツナは気付いたらしい。ばつの悪そうな顔になって、仰け反っていた体を少しなおした。
「………ごめん。いいすぎた」
「いや………仕方ない」
「千種、ほんとに?夢みてるんじゃないよな?」
ぐにっと自分の頬を抓るツナは、自分の意識に半信半疑の様子だった。無理もない。
さっきまで一緒に風呂にまで行っていたルームメイトが、突然性転換だ。ショックを起こさない方がおかしい。





話をしようにも取り乱したままでは進めない。
千種は部屋に常備しているポットを使い、手早く茶を入れた。
その使い方や仕草がいつものと重なるのだろう、ツナはやっとほっとしたような顔をして、大人しくカップを受け取る。ありがと、と小さな礼も返ってきた。
「なあ、千種………」
「何」
「お前その格好………おかしいって自覚ある?」
ぷぷぷ、と笑いながら指摘されてはたと気付く。女の時のパジャマを着ているせいで、ぱつぱつだし、足はにゅっと伸びているし、似合わない。
色がグリーンなのがまだ救いで、ピンクなど着ていたら最悪の見た目だったろう。
背筋をゾクゾクさせながら千種はタンスをあさり、手早く大きめの上着を羽織った。下はしょうがない―――入学時は完璧に女として入り込んだので、男物の服など持っていないのだ。
「これでいいか?」
「上だけみてればな」
愛用のちゃぶ台の、向かい側。やはり距離を置いてじっと男になってしまった千種を観察する、ツナの目は好奇心半分混乱4分の1、残りは恐怖だった。
「で………なん、で?」
「…うん」

柿本千種の元々の性別は男だ。
それを、普段は薬入りのキャンディーを舐めて補充し、女性体を保っている。1日に2、3個食べていればまず切れることはない。(………筈なのだが)この呪われた発明品は彼の主である六道骸の作品であった。
理由は。

「人捜し…してる」

六道の執念と、ひん曲がった根性と、ろくでもない企みが渾然一体となって向かう相手―――
それが千種の探す男、「綱吉」。(今のところ年齢と名前ぐらいしか知らない。この学校にいるかも、という曖昧な情報だ)イタリアだけでなく世界屈指のマフィア、ボンゴレファミリーの跡継ぎである。
ただその存在が及ぼす影響、周囲への波紋、そして何より本人の命を守るためその存在は極秘とされていた。
六道は恐るべき粘着質さで何年もかけ、その男についての情報を集め、やっと日本に居ることを突き止めた。国だけでなく、潜んでいるらしい学校まで特定できたのは幸運だったのだろう………とそこまでは良かった。
その為に一人が女子校に潜入捜査に向かうという事に決まり、
「色々面倒そうですね、僕は遠慮します」
という六道と
「女いっぱいいる?」
と目をきらきらさせる犬を除いて…
つまり千種が、行く羽目になるまでは…

………なんておどろどろしい話を聞かせるわけにもいかず、千種は適当に語尾を濁して誤魔化した。
歯切れの悪いそれにツナは色々質問し、時には勝手な憶測を言ってみたり。
どうしたもんかとうんうん悩んでいたせいで、無意識にうんうん返事をしてしまい、気が付くと、

「つまりこの学校に居るお尻に柿の葉っぱの痣がついた女の子が千種の生き別れのお姉さんなんだ!」
「………うん?」
そういう、ことになっていた。

 


 

7時ちょっと前の食堂で、忙しく働くオバちゃん達にひかえめなおはようございますを言ったのは。
「おやー?珍しい子がきたもんだよ千種ちゃんは?」
「あっ、あのう、具合………悪いって」
「あらあら可哀想に。お粥とかじゃなくていいの」
「大丈夫です!」
ツナはトレイに2人分の朝食を乗せてヨタヨタと通路を戻った。部屋では頭を抱えて唸っている千種がいる。

彼女―――いや、彼は、女に戻れないでいた。





「朝ゴハンだよー」
足で扉を蹴り開ける。びく、と震えた背中は骨張って大きく、振り向いた顔も丸みが消えてしまった。ゴツくはないが、角度はきつい。シャープと言えば聞こえは良いけれども。
なんとなく落ち着かない。
眼鏡も、帽子もそのままだ。けれど胸は無いし背も大きくなっている。手がおっきい。足も、長い。

知らない男が部屋に居るんです、と通報したら、きっと1分もしないうち大騒ぎになる。
でもツナはそんなことをするつもりはなかった。柿本千種はなんであれ、友達だ。友達が人を呼んで欲しくないと言ったら自分はそうする。
千種が大変なんだ、ちゃんとしないと。
だから朝食も、徹夜でぼーっとした頭でも取りに行って、辺りの様子を伺ってきた。夕べあんなに騒いだのに皆気付かなかったらしい。いつも通りだった。
(良かった………のかな?)
碗の中身を啜っている千種を見ると、分からなくなる。

男だ、確かに。だから本当は一緒の部屋にいるだけでもこわい、筈なのに。
自分めっちゃ寝てた。

「………飴、効かないから」
「はいっ?」
「飴効かないから。血管に直接入れたら良いんだと思う。連絡、した」
低い声はまだ慣れないが、とりあえずこわくはない。
きっと千種だからだ。ツナは気張りを解きはじめていた。
「誰に?」
「従兄弟」
「………えーと」
従兄弟というのは、あれだろうか。
前喫茶店にいた、あの………
「ふ、ふうん」
正直ツナは、あの人は第一印象から苦手だ、と思ったのだが………
「ちょっと待って。千種、外でれないじゃん!」
「夜なら、こっそり抜けれる」
「無理だろぉ!警備員さんが巡回してるし、塀あんなに高いのに。いいよ、行くよ」
「………!」
びっくりしたような顔をするが、ツナだってただだらだら流れるままに生きているのではない………と思う。多分。
これが普段世話になっている恩返しのチャンスだと思えば。
「危険だ」
「薬だけ受け取って直ぐ来るから。なんかあったら警備員呼ぶって言う」
「でも………」
「あーもーうるさい!千種、退学になっちゃったら困るだろ?!お姉さん探したいだろ!」
「………」
千種は冷や汗をかいた。いつの間にかそういうことになっていた、生き別れの姉説がヘンな所で力を発揮し始めたからだ。
「とにかく!お前は今ヤバいんだから大人しく部屋に居て一歩も外、出るな!」





珍しく一方的に自分の意見を押し切ったツナは、勢いで行く!なんて言ったことを今更超後悔していた。
千種の病欠報告をし、授業を受け、夕食を部屋で取り。
いよいよその従兄弟とやらと待ち合わせの時刻になって、
「これ、用心の為」
千種に持たされたのが改造スタンガンだ。
「スタンガン?!どんだけ危険だお前の従兄弟!」
「………油断するな。あの人が大丈夫と言ったら大丈夫じゃない、何もしないと言ったら何かするつもりだ、ぐらいでのぞめ」
「ヒエーッ」
「用事が済んだらすぐ帰ってこい………」
珍しく焦ったような顔で、心配げにちらちらと時計に目をやる。
「分かったな」
「うん、分かった」
「よし」
肩に手を置いて、はっとしたように離す千種のそれを取って、ぎゅうと握りしめた。
友情の握手。
「行って来るぞ!」
男千種の低い声も大きな背も手も、1日で大分慣れた。ツナにして快挙である。