柿本千種の朝は早い。
元々は、完全夜型人間だった。生活の改変を余儀なくされ、仕方なく渋々と起床時間は7時になった。そしてとうとう、同室の人間のそれ以上の怠け癖と往生際の悪さにより、6時半になってしまったのだ。
朝起きてまずすることは、前夜の祭りの後片づけだ。
ジュースの缶、散乱するゲーム、トラップのように絡まる延長コード。
すうすうと安らかな寝息を立てる同居人を起こさぬよう、静かに缶を拾い、お菓子のくずを拭き、ゲームを棚に戻して延長コードをまとめる。コントローラーを本体の上に置き、テレビ台の下にしまう。
食堂は7時から開く。行って食べてもいいし、部屋に持ってきてもいい。その場合、食器を返却に行かねばならないが、部屋で人目や派閥を気にせずゆっくりできるのは良い。
薄暗い部屋の中でごしごしと目を擦り、ベッドの脇に置いておいた眼鏡をかける。同居人に異常にうらやましがられる、3秒で寝癖のなおる髪をトレードマークの帽子に押し込め、パジャマのまま上着を羽織って出ていく。
食堂の調理場に直接行くと、頬を赤くしたおばちゃん達が忙しく働いていた。
「あらオハヨ!千種ちゃん」
「………はようございます」
「今日も持ってくの?たまには食べてったら?後10分で開くよ」
「………すみません」
「ああ、あの子?しょーがないねえ」
トレイに出来たてのみそ汁と炊きたてのご飯がどん、どんと置かれた。勢いがありすぎてこぼれるが、おばちゃんたちは気にしない。
「………」
無言でふきんで拭う千種に、ガハハと笑っておばちゃんはおかずの皿を追加する。
ヨーグルトとプリンを一つずつと、野菜ジュースも。
「特別、おまけだよ」
最後にリンゴとみかんがドンと来た。
みかんはともかく、リンゴは剥かなければ食べられない。部屋にナイフなど無いので思案していると、通路が騒がしくなった。
食堂が開く5分前の、恒例の席取りだ。
「ありがとう、ございました」
千種はお礼を言って、そそくさと食堂を後にした。
部屋に戻ると、やっぱりまだ暗かった。
カーテンは閉まったまま、ベッドの上の影はぴくりとも動かない。
仕方なく千種はカーテンをひき、窓を開けた。冷たい冬の空気が入ってきて、ぶるりと身震いする。
「………さむ」
やっと、一声。
千種が寝ているベッドとは反対側。頭まで布団にくるまっているので、どこが足なんだか頭なんだか分からない。
「さむい…」
「窓、開けたから」
「なんで………開けるのさ………」
「もう起きないと」
時計は7時を指している。いい加減、起きて準備をしないと授業に遅れてしまう。
諭す必要がないくらい当然の、毎日の事なのに同居人はしぶとい。他では根性など紙一枚分の重さもないくせに、この時ばかりは強情だった。
「いやだー…」
「いやだー、じゃなくて」
千種は一気に布団を剥いだ。
プルッと小さく震えて縮こまる、小さな女の子が其処には眠っている。
同居人の、沢田ツナだった。
「いただきます」
「…ただきます」
やっと目を覚ましたと思ったら、ずりずりとみっともなく滑り落ち、そのままちゃぶ台で寝ようとしたので千種はツナの丈夫な髪の毛を引っ張った。
「いたいたいたいいた」
「ごはん」
良い香りのするみそ汁や目玉焼きに、やっと脳味噌が活性化したのか。
ツナは寝ぼけ眼を擦りながら箸を取り、本能的ないただきますを言う。毎日の儀式だ。
「ありがとちくさぁー………ふ」
人の名前の延長線があくびってどうよ。
思わないでもなかったが、やっぱりこれもいつものことだ。気にせず自分も箸を付ける。
黙々と食べ物を流し込むと、半眼のツナがごはんを半分も食べ終わらないうちに、プリンを掴もうとしたのでさっとよけた。
「何すんだよ!」
―――これだ。
ツナは標準に比べても小柄で、細くて、小動物めいていて、かわいらしいと言えなくもない女の子だが口調や仕草は雑で男っぽかった。
千種は癖の眼鏡を押し上げる仕草をして、レンズの奥から軽く睨む。
「…食べてから」
「ケチ」
仕方なくごはんを口に入れるが、途中でめんどくさくなったらしい。
ざざーっとみそ汁をかけて一気に入れる戦法。胃に悪そうだ。
「ほら食べた。プリンくれ」
目玉焼きも白身の部分しか減ってない。が、それを言うのは可哀想な気がして、見逃すことにする。
「はい」
「ウン」
ぺりぺりとフタを剥がして、内側を舐める。貧乏くさい仕草である。
しかし見ているのは千種一人ということで、ツナは極普通の様子でそれをした。信用の現れなのか、ただの横着なのか。
中身の方を電光石火の勢いで食べ尽くすと、まだ箸を持っている千種のヨーグルトを物欲しげに見る。仕方なく、「半分だけ」と言って渡す。
「へへへ」
またフタの内側を舐める。スプーンを、遠慮無く突っ込む。
ヨーグルトのスプーンは一つしかないので半分食べる千種と同じものを使うことになってしまうが、ツナは気にした試しがなかった。そういう気遣いというものに無縁なのだ。
「ごちそうさん」
「待て」
食べて目が覚めたのか立ち上がろうとするのをひきとめて、リンゴとみかんを出す。
「どうしたこれ?」
「貰った」
「すげー」
ようやくヨーグルトにとりかかった千種を後目に、ツナはみかんを素早く剥いて半分にし、それを丸々口に入れた。
「もいひい」
「………うん」
頬いっぱいにしている顔はマヌケだが、視線をそらして吹き出さないようにする。口にヨーグルトが入っているから。
「リンゴ、どうすんの?」
みかんを食べたツナは次の獲物に取りかかったが、すぐにナイフないようと訴える。
どうにかしよう、動こう、という気が基本的に無い甘ったれた態度だ。
流石に面倒見の良い(元々はそうでもなかったのに、ここ最近発達してきた)千種もむっとして、好きにすれば、とぶっきらぼうな口調になった。
「えー………」
ツナは考えるような顔をして、その内面倒になったのだろう。突然大口を開けてリンゴにかぶりついた。
「丸かじり…」
「おいひーほ」
水分の多い、美味しいリンゴらしい。囓っている口元からだらだら汁がこぼれている。
どっちにしたって世話をすることになるのだと溜息をつきながら、千種はそれを丁寧に拭ってやった。
朝食を終え、半分かじられたリンゴをしゃりしゃりと食べながら着替える。
鏡に映る自分を見るのは毎回ぞわっとする瞬間なのだが、隣で必死に髪にブラシをあてているツナには分からないようだ。
「あーもーむかつくー!なんだよー!」
前日きっちりドライヤーで乾かしても、朝芸術的なまでの寝癖がつくツナの頭。
対し、千種はぐだぐだに濡れた髪で枕を濡らしても、翌朝数度櫛を通せばストレートという便利な頭だった。
「遅れる」
「分かってんの!」
「…貸して」
見かねて手を出す。あっちこっちに跳ねている茶色を何とか宥めると、直ぐに時間はやってきた。
「限界、かも」
「もーいー。誰に見られる訳でもないし」
それは違うと思う。
クラスじゅう、全員見る。時々教師も笑いを堪える。
そう喉元まで出ていても、口に出さないのが千種の美点だった。
「行こう!」
鞄を持ったツナがドアを開けて待っている。
靴を履いて一緒に出る、その瞬間だけはああ、いい人生かも、と振り返る事が出来るのだ。
柿本千種は変なやつだ。
ツナは自分も変だという自覚が無かったので、そんな失礼なことを毎度毎度同居人にたいして思っていた。
千種は、2年になって同室になった、転入生だった。
小、中、高、大学まで―――女子校で、中、高は全寮制という特殊なこの学校では、まず珍しい類の人種だ。
まず、格好が変だ。
教師が幾ら口を酸っぱくして言っても、帽子を脱ごうとしない。あれを取るのは風呂にはいる時から髪が乾くまで、つまり翌朝までの本当に限られた時間しかない。(だから千種の髪が綺麗な黒髪で、つやつやのストレートだというのはツナだけしかしらない)
それからいつでも黒縁眼鏡をかけていて、しょっちゅうクイクイ押し上げる。何か言いたいとき、呆れたとき、怒っているとき面倒くさいとき。どんな感情も眼鏡をクイッ、で表してしまう。
無口だ。
必要以上に喋らない、どころか必要なことも喋らない。生徒にも教師にも、はいかいいえしか答えなかったり、もっと酷いときには完全にシカトする。
ツナには同室のよしみか喋ってくれるが、聞いてみると案外辛辣だったりして、おおむね黙っているときと変わらないぐらいクールだ。
頭はいいのに、成績は悪い。
IQテストでもんのすごい数値を出す癖に、普通の定期テストでは教師がさめざめ泣くような点数しか取らない。もっとも、これはツナはありがたい。補修組は一人でも多い方が心強い―――ツナは勉強が余り得意ではなかった。
運動神経はまずまず。
面倒がってやらないが、以前の体育で本気を出した彼女はバスケ部を5人抜いてシュートを決めた。
それから絶対大浴場に行かないで部屋のシャワーで済ます、とか、学校に入ったら誰でもやりたがる、やらずにはいられない、誰々さんのグループにも興味はない。一人でも平気。暇なときは本を読んでいるか、ぼーっと窓の外を見ている。授業で指されても、朗読はいっさいしない。声にださず黒板に書く問題ならやる。とまあ、こんな風に数え上げればきりがないくらい、柿本千種は変な女の子だった。
でも、ツナは千種が変で大いに助かっている。
入りたくても入れなかったグループも、今は彼女がいるせいでどうでもよくなった。勉強が出来なくても、運動ができなくても、最近学校が楽しい。
授業に遅れなくなったし、食堂で一人ごはんを食べることもない。(千種が全部持ってきてくれる)
興味があるのが洋服や、遊びに行くことじゃなく、ゲームやマンガというのも、共通していて話が合う。
人数が奇数で一人余っていた1年生に比べたら、ずっと楽しい学校生活になった。
だから密かに感謝している。
「沢田さん」
教室で本を借りに行った千種を待っていたら、珍しくクラスメイトが声をかけてきた。
「なに?」
どもらなくなっただけでもたいした進歩だ。
ツナは内心ちょっと緊張しながら、出来るだけ普通に返事をした。
「沢田さんってさ、柿本さんと仲良いよね」
「うん」
「柿本さんの、ちょっと………噂聞いたんだけど」
知ってる?という顔が少し意地悪そうで、嫌な予感がする。
けれど「聞きたくねーよバーカ」と言って後ろ足でぺっぺと砂をかける訳にもいかず、ツナは黙って次の言葉を待った。
「同じ学年の杉沢さん、柿本さん見たって。駅前の喫茶店で男の子達と一緒にいたところ」
「えっ?」
初耳だ。
ツナはびっくりした。勿論、千種が男の子に人気があるのは知っている、可愛いし、年齢より少し大人びた感じもする。胸もそれなりに大きい。ぺったんの自分とはえらい違い。実際、外に出れば別の学校の制服を着た男の子達が声をかけてくる程だ。
「付き合ってるんじゃない?」
「でも2人だったみたいだし」
「ふ、2人?」
「黒曜中の制服着てたって」
どっちもかっこよかったって話だよ、とか。
柿本さんもやるねー、なんて嫌な言い方をされて、流石のツナもむっとした。
「………ふうん」
でもま、関係ないし。
予想外にドライなツナの反応に、クラスメイトは鼻白んだような顔をして素早く立ち去っていった。
それと入れ替わりで千種が帰ってきて、鞄を持って側まで来る。
「帰る」
「………ん」
本当は気になる。
千種は初めて出来た友達らしい友達だったし、ツナは割と何でも話してしまう。今まで言えなかった家の事情とか、身近な、どうでもいいことまで。
(けど………)
確かに、千種は自分の事については何もいわなかった。
(そういうの、嫌なんだろーな)
相手が言わないのにしつこく訊くのも嫌で、ツナは何となく気になりつつも、クラスメイトの言った噂とやらは千種には言わないことに決めた。
「…よし」
「どうした?」
妙に気合いの入ったツナを千種が訝しげに見る。
「今日は、徹夜でゲームするぞー!」
「………そう」
「明日は土曜日だしー!日曜もあるしー!」
「………うん」
2人は寮に続く通路をテクテク歩くのだった。
「久しぶりですね、千種。デートのお誘いですか?」
「単なる定期報告です」
ただでさえ目立つ名門女子校の制服で来たくなかったが、仕方がない。
千種は眼鏡を押し上げた。
「それにしても可愛い」
「嬉しくないんですが」
「予想外に上出来と、喜んでいるんです。ああ僕の才能がこわい」
「………ハァ」
思わずこぼれた大きな溜息も、相手のナルシズムにひびすら入らせない。
もちろんそれがパフォーマンスなのだと知っているけども、時々ホンモノか?と疑いたくなるような陶酔ぶりを主は見せる。
「場所変えましょうか」
「…お願いします。正直、目立ちたくないんで」
駅前の喫茶店で、メニューを睨む。
その目つきは険しく、パフェだのケーキだのマンゴープリンだのと甘味ばかり揃えた品揃えに不服を申し立てたい所存であることを示していた。
「どれでも好きなものを」
「お水ください」
主の爽やかな笑顔をぶった切って、千種は店員にそう言った。
ヤレヤレと仕方ない顔をしてスペシャルイチゴパフェを頼む男子中学生の顔を、ウェイトレスはぽーっとなって見つめていた。
千種は溜息をさらにつく。
この主の中身を知ってなお、そんな気持ちになるのならばあっぱれだが………
「それで、目当ての人物は見つかりました?」
「全然駄目です。情報が少なすぎます。生徒何人いると思ってんですか」
千種は家の事情でも自分の事情でもなく、仕事をするために転入したのだった。
それを命じたのはパフェを3口食べてさじを置いた根性のない男、六道骸である。
彼のまこと勝手な論理と面白がりと、あるドス黒い目的の為に。
「仕方ないじゃないですか。僕らこの辺の事情に詳しくないんです、何しろ脱ご…」
「声が大きいです骸様」
「ンガング」
パフェをうつわごと口に突っ込まれ、骸が呻く。
千種のこの行動の裏には、静かにしてくださいというのとこの野郎俺をあんな所に放り込みやがってというのが隠れていた。
「ぷはっ」
爽やかに、パフェを口から話す六道を、(どうやったらそんな芸当が出来るのか不思議でならない)千種は冷め切った視線で見ていた。
「今のところ、目星をつけているのが15、6人です。しかし」
「甘い…」
自分で頼んでおいて顔を顰める六道を、無視して。
「知っての通り、特殊な場所ですから。学年が違えば顔も合わせ辛く」
「まったく、ねえ。あんな厳重な警備でなければ手っ取り早く忍び込めるんですが」
「やめてください」
千種は若干顔色を悪くした。
「生徒に見つかったら大騒ぎになります。男は………無理、です」
千種の居る(無理矢理突っ込まれた)女子校はその完璧過ぎる管理と、警備によって評価を得ているような有名どころだ。
仲には今時世間知らずの純粋培養なお嬢様がわんさとおり、そんな高貴な方々を俗世の俗っぽい男というけだものにふれさせるわけにはイカーン!と、ほんの5年前まで生徒のみの外出も禁じられていた程だ。
幸いにして校則が改定され、今では許可証を得て(しかも何々の用事と書かねばならない)、制服で、(マニアには逆効果だ)出かけることが出来るようになった。
そんなわけで刑務所より高い塀と巡回する警備員、ギラギラ目を光らせる教員に囲まれた誉れ高き純血の乙女達はくさくさした気分で高校まで我慢し、大学生になってはっちゃける、というお決まりコースを辿るのである。
もっとも最近は、中学生も高校生もそれなりに抜け出して楽しくやっているようだが。
そうですか、と言いながらパフェをつついて遊んでいる六道から目線を外し、千種は窓の外を見た。
ガタン!
一息に席を立ち、突然店の外までダッシュをかける。
冷静沈着を絵に描いたような千種がそんな事をしでかしたので六道は目を丸くし、危うく椅子から転げ落ちる所だったが長い足がかろうじて床を踏みしめ、転倒は免れた。
「千種、こ、こんちわ」
「こんなところで何してる」
「買い物…とか」
千種が急いで出ていったのには訳があった。
通りかかったのは同室の沢田ツナだった。そして彼女は道の真ん中で早くも数人の男の視線を集めていた。
特に際だった美少女、というのではなく。
その小ささや、仕草の細さ、愛らしさ?が人目を引くらしく、妙な輩をくっつけてきてしまうのだ。
千種は後悔した。
いつもなら自分が外出につきそうのに、今日に限って授業が長引き焦っていた。注意せずに出てきてしまった為、ツナは買い物を今日の内に済ませてしまおうと思ったに違いない。
「一緒に行く」
「え………いいのか?」
ツナがちらちらと目線をやる先、喫茶店のガラス越しに六道がにこやかに手を振っている。
思わず千種は腕のツナを庇うようにして、低めた声で吐き捨てた。
「従兄弟」
「へ?」
「たいした用事じゃない。行こう」
我ながら下手な嘘だったが、ツナは信じたようだ。
ぺこ、と小さくお辞儀して(千種はそれすらしなくていい!とハラハラしたが)ツナは小走りにその場を離れた。千種もついていく。
「………ゴメ、失礼、だよな」
「仕方ない。それにあれは、気にしなくていい」
ツナは小さく震えて息を吐き出した。男性恐怖症なのだ。
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