夜想(リーマンパラレルの設定ですが続きというわけではなく)

 

 

古びたピアノだった。一枚壁紙を剥けばボロボロの、こんな安酒場には不似合いのスタンウェイ―――何事も格好を付けたがる店主がわざわざ人を雇ってまで弾かせている。
綱吉は音はどうか分からないが演奏が酷いことは分かる、微妙な音感を持っていた。
これは幼少期、母に僅かに習った後遺症のようなものだ。小学校に上がる前までは、綱吉はピアノというものに慣れ親しんでいた。母親の奏でる簡単な童謡から、時折真剣に指を走らせる分からないが何か深刻そうな曲の違いなど無く、練習すれば自分も弾けるようになるという言葉を信じてポンポン鍵盤を叩いた。
綱吉の手は小さかった。指が届かず、複雑な曲に足る複雑な音階が得られなかった。小学校にあがってからは、ぴたりと止めた。
別に明確な理由があった訳ではない。
綱吉自身、その出来事は過去の苦い傷となっている。自分の矮小さを突き付けられるようで今でも大変いたたまれない。何事も、さっさと忘れるタチにしては珍しい。

「聞いてらんないよ」
綱吉が心の中で思っている事を、そのまま出すのが連れの青年だ。
今日も無理矢理仕事上がりに付き合わされ、たわごとを山ほど聞かされて、その脈絡無いマシンガントークを止めさせたくて入ったこの店は予想と違い静かではない。喧噪はピアノの音すらかき消しそうだ。
「下手だよなぁ。あれ、商売のつもりなのかなあもう死ねってカンジ」
「ちょっと」
声が大きい。
服の袖をちょいと引っ張って眉を潜めると、何のつもりか知らないが「かわいいっ」と言って抱きついてきた。
「失礼だな君はなんだ一々一々!」
「え、お誘いじゃないの」
「何処をどう歪めたらそうなるのか俺には分からないよ。もういい」
聞いてられないならさっさと出よう―――
くるりと背を向けて歩き出そうとした時、ベルは一直線にピアノへ向かって弾いていたそいつを尻から蹴飛ばした。


指が滑る。

軽快な音。

ポロポロと零れるように陽気なリズム。強弱やテンポなどという、単純なものじゃない。譜面は役に立たない。人の声が止んだ。静まりかえった店で心臓が痛い程鳴っている。聞きたくない。

荒々しい衝動、叩き付けるようにフォルテ。
有り得ないほど繊細な和音。吐き気がした。


ワッと盛り上がる拍手の中、綱吉はよろけつつ店のドアから出ていった。

学校に上がって直ぐに苛められた。綱吉は体が小さく、運動が苦手で、かといって勉強も得意でなかった。喋る言葉は物怖じしてもごもごとはっきりせず、弱々しい態度は同性を苛つかせ異性からは軽蔑を貰った。
そんな綱吉だけでなく、気に入らなければ誰にでも暴力を振るう同級生がいた。当然の如く綱吉は彼が一番の苦手で、その大きな体躯や同年代の子供達に比べて無骨な指に怖れも抱いていた。しかし、そいつは授業中にまで綱吉を叩きのめした。
音楽の時間、教師の演奏にケチをつけた(今思えば相当自己主張の強い子供だったのだろう)そいつは、唖然とする皆の前でこともなげにピアノを操って見せた。演奏は早熟で、誰が見ても聞いても担任教師よりはるかに上手かった。
何より、綱吉の母か、子供の分それ以上に優れているように思えたのだ。

綱吉は子供としての健全な判断で、苛める子は苛められる子より悪い存在、少し歪んだ意識では劣った存在だと信じていたから、文字通り打ちのめされた。あんな反抗的で、大人にしょっちゅう怒鳴られていて、同級生からも遠巻きにされるような存在が簡単に注目と羨望を集め、教師の称賛と涙を引き出し、綱吉にとって自負であったピアノという領域にずかずかと踏み込んで蹴散らした。クラス中で雷鳴のようになる拍手。綱吉だけは呆然として指一本動かすことも出来ず、ただぽかんと口を開けて。休み時間、やっとトイレの個室にこもって泣いた。誰かが扉が閉まっているのを見て囃し立て、悪戯をしたから余計に泣けた。

それ以来綱吉はピアノというものに一切触れず過ごしてきた。
たまに音色が聞こえても、自分のくだらない感情とは切り離された所でいい音だとか、イマイチとか、上辺だけの評価で穏便に過ごしてきた。得意中の得意だからだ。
「ちょっと待ってよ沢田さーん」
あんな風に神経を掻き回すような音は、それを易々と突き破る。
綱吉が必死で守っている心の壁を粉々に砕いて更に足で踏みつけ、嘲笑と共にずかずかと入り込んでくるのだ。よろめきながら逃げた。向かい来る人々がぎょっとしたような顔をする。気付いたら泣いていた。
「なんだよいきなりもーふざけんなって………の」
綱吉の肩を捕まえ無理矢理正面にやってきたベルがあんぐり口を開けた。手で覆うこともせずぼたぼたと零れる涙に度肝を抜かれたようで、あの饒舌が嘘のように止まっている。
「気にするな。君のせいじゃないよ」
「おれ、」
「オレただ沢田さんが喜ぶと思って」
「女ってああいうの好きじゃん。だから、」
言い募る口調が幼くて可笑しい。
「俺は女じゃない。もういい。勝手な感傷だ、関わらないでくれ」
「でも女みたいに泣いてる…」
細い指が本当に、女にするように綱吉の目尻を拭った。
さっきまでこの指があの軽快かつ圧倒的な音を奏でていたのだと思えば、カッとなった。
綱吉は反射的にがぶりとそれを噛んでいた。





耳元に息が吹き込まれる。いいじゃん、ちょっとだけ。遊ぶだけ。やらせて。
小鳥のさえずりのように煩わしく、腹も立ったので押しのける。案外強く、押されない。腕や腹はやたらに硬かった。骨張っている体型からは想像できないが、そこそこ鍛えてあるのかも知れない。
どうしてこの男はこうも俺のコンプレックスを刺激するのだろうと綱吉は苦い顔をした。こうなると尚更、やらせるわけにはいかない。薄々感づいていたけれども、多分そういう人種だろうなあという漠然とした予感はあったけど。女の子見る視線は少なくとも自分と同じ、足見て胸見て最後に顔だ。だから油断していた。
「やだっつってんだろ………!」
「意地っ張り。通りでわんわん泣いてたくせに」
「わんわんなんて泣いてない」
「でもすっげー泣いてた。鼻水垂らしてさー。しかも、それ袖で拭いた」
「育ちが悪いんだよ」
「オレ、良いんだ」
普段はあんなにチャラチャラフラフラしているくせに、ハンカチを常備していたことについては綱吉も感心した。
しかしこうして押し倒され、今にも突っ込まれそうになっているこの状況はまた別だろう。
「育ちが良いとこういう事するわけ」
「沢田さんオレに惚れてんじゃん。更に今、また惚れ直したでしょ?」
「完全に誤解だ………」
「いいんだよこれで。元に戻るから。釣り合い取れるって、オレも沢田さん好きだしー」
意味不明の言葉を言った後、ベルはにやりと笑った。腰に感触、振り払おうとしてはっとする。あの手。
「また弾くから、泣いてね」
「嫌だ」
「ヤダっつっても泣かす。泣かせちゃう」

聞きたくないし泣きたくもないが後悔もしたくない。
服の中をはいずり回る手を、綱吉は二度と傷つける事はないだろう。

 

 

 

 

勝手な妄想失礼致しましたー! ▲