バランスビター

 

 ドアを開けた綱吉の顔は、少々引き攣っていた。
(ああ…昨日のアレ、本気だったんだ…)
「なんだ、寝間着姿とは悠長な」
「ラルさん…なんですかこんな朝早くぁぁぁ…ふ」
「馬鹿者、昨日言っただろうが!」
 玄関先で早速キリキリ目尻をつり上げるラルに、慌ててシィと指を立てる。
 近所には未だ眠っている住人も居るだろう。
「とりあえず、中入って下さい。コーヒーで良いですか?」
「む…仕方のない奴め。着替えの時間ぐらいはくれてやる」
 相手は誘ったこっちが戸惑うほど、躊躇いなく部屋に足を踏み入れた。考えてみたら…
(一応…女性だよね?)
 立派な女性である。
 しまった、掃除をしておけば良かったと綱吉は今更ながら悔やんだが、ラルは散らかった部屋にもまったく動揺することなく、まっすぐスタスタと来てテーブルに着く。
「狭いな」
(うっ)
 つい甲斐性無しですみませんと謝りそうになる。
 しかし彼女にはむやみやたらに謝るなと怒られている事もあって、寸前で止めた。そうですねえと適当な相づちをうちながらポットの湯にインスタントをブチ込み出した後、綱吉は慌てて洗面所へ駆け込んだ。
 三秒で顔を洗ってボサボサの髪をおざなりに撫で付けて…
「コホン」
 咳払いが聞こえてきた。
 思わず背がビクリと跳ねる。
 持っている中で一番動きやすい服装に着替え、出てきた綱吉をラルはじろりと眺めて「まあ、よかろう」と許可を下さった。
「行くぞ!」
「…はぁ」
「声を出せ声を! 気合いを入れろ!」
「はい…」
 やたらと元気の良い背が、弾丸のように飛び出していく。
 渋々後に続き、走り出す。
 ジョギングなど学生時代以来やった事がない。何年ぶりだろうか。それにしても…
(なーんでこんな事しなきゃならないのかなー…)



 ラルの『いい方法』には、自分の助けが必要らしい。
 言われて悪い気はしなかった綱吉。しかし次の言葉は思いも寄らないものだった。
「とりあえず貴様はまずその貧弱な体を鍛える必要がある」
「ひんじゃく…」
「基礎をしっかりやっておかねば怪我をする事もあるからな。うむ」
「ちょ、怪我?! ええ、ラルさん何を…」
「つべこべ言わずにオレに従え!」
「は、はいっ!」
 その迫力にイイ返事をすることしか出来なかった。
 つまり綱吉は未だその中身を知らないのである。
 やれと言われたからやっているのであり、掻き立てられた不安は最高潮。
 気になって眠りが浅かった。体は全然覚めてない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「貴様もう息が切れたのか! 情けない!」
 そんな綱吉にまったく容赦なく、ラルは檄を飛ばす。
「ヒィ、ヒィ、ヒィ」
「気合いを入れてついてこい!」
 早朝から町内を駆けずり回った挙げ句、公園でスクワットや懸垂を死ぬかと思うほどやらされる。
(どういう、体力、してるんだ、よ!)
 日頃の運動不足を痛感しつつ、ひいひい言いながらメニューをこなす綱吉と違い、ラルは慣れたものだった。
 隣でその数倍ハードなトレーニングを黙々とこなし、しかもその間ずっと修験者のような厳かな表情で息も切らさない。
(化け物だ…)
 ようやく休むことを許された綱吉は、全身汗だくになりながらベンチに倒れ込んだ。
「これ……なんの……関係ガフッ、ゲホッ」
「息を整えたら水分を摂取しろ」
「…どうも」
 水のボトルを受け取りながら、仰向けになる。
 激しく波打つ胸を押さえ、深呼吸を繰り返し、ゆっくりと上体を起こすと酸素不足でくらりとした。
(水が美味い…)
「店長。貴様、日頃どんな生活をしているのだ」
「…ン、どんなって、フツーの…生活ですよ?」
「馬鹿な」
 ラルは整える必要もない程整った呼吸で、今度は太極拳らしき動きまでしている。
「この程度で」
「確かにちょっと、運動不足かもしれませんけど」
「だから細いのだな。掴んだら折れてしまいそうだぞ」
「……」
 女性に言われる台詞ではない。流石にへこむ。
 それでも店の為だと言われれば、やるしか無いのが店長である。
(もうなんでもアリだ。超人め)
 綱吉は水を置いてのろのろと立ち上がり、次の言葉を待った。
「よし、次は腕立て伏せ」
「うええー!」
「…百、いや二百…さん」
「腕立て伏せ百回、始めますっ!」






 謎のトレーニングはその後も毎日続いた。
 最初の三日は地獄だったが、それを過ぎた当たりから徐々に筋肉痛も薄れ始め。
 一週間程経つと、驚くほど体が軽くなった…ような気がした。
 寝覚めも体調も良いし、仕事場でも店長なんだかスッキリしてますね顔が!と褒められた。
 以前の死んだ魚のような目に比べれば、確かに随分健康的になってきたような気がする。
 何しろ毎朝毎朝鬼教官が迎えに来るのですっかり早起きになってしまった。夜も夕食を終えて八時をまわるともう眠い超健康生活。
(人ってテレビ見なくても生きて行けるんだなあ)
 一つ発見した。
 今や綱吉の情報元は携帯と職場での会話である。不便を感じないのがちょっと寂しい。

 そんな訳で今日もサクサクお仕事をこなしていると、ホールを終えたラルが裏に戻ってきた。
 おつかれさまですと声をかけると、何故かまじまじと顔を見ている。
「俺の顔になんかついてます?」
「いや。そういう訳ではない」
「待って下さい今あがるんで。帰りに明日の朝食買っていきましょうか」
「…よし」



 彼女は返事をしたのではなかった。
「ん?」
「受け取れ。今の貴様にはその資格がある」
 気付くと、ラルは勇ましい顔つきで綱吉に何かを差し出していた。


2009.11.10 up


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