02.

 

 部屋の中央にぽつんと置かれたちゃぶ台に、ノートパソコンが一台置いてあった。
 電源ボタンを押すと立ち上がり、パスワード入力を求める画面が浮かんでいる。
 分かる筈もない単語をでたらめに押した後、無理矢理切って線をまとめ、抱える。身分証は見つからず、着替えは最低限のものだけで、血まみれになって着られないだろう服の替えぐらいしか見つからない。部屋着みたいなものも全然ない。
 なんとなく思い立って台所を覗いてみる。
 部屋の間取りは同じだし、冷蔵庫も備え付けの小さめのものが一つ。綱吉が普段冷蔵保存を必要としない食料(お菓子とか飲料とか缶詰とか)を仕舞っている棚は調味料の瓶が並んでいた。一人暮らし特有のレトルト、インスタント食品やカップ麺の一つも見あたらないのは正直驚いた。訪ねて来てくれた折、こんなものしかないけどと出したら普通に美味しいと言っていたのだけれど。
 対照的に冷蔵庫は満杯だった。食材と皿がひしめきあい、スペースは殆どない。これぞ自炊、というような、いやそれさえ超越しているような気もしないではない。
 彼はサークルに所属することもなく、特に親しくしている人間も、ちょっと思い当たらない。純粋に忙しいのかなという印象を受けたが、実際何に忙しいのかまでは深く追求しなかった。
 多分、『俺』に忙しかったんだろうな。
 綱吉の思考は自虐を含んで一瞬沈む。しかしまた、違う疑問も沸き上がる。彼は何のために俺なんかを見ていたんだろう。写真を撮り、メモ書きして、たいして面白くもないたわいない日常を知り、一体何がしたかったのか。
 生憎自分は平凡な一学生に過ぎない。人に注目されるような何かを成し遂げたこともないし、家は極普通の一般家庭だ。
 荷物を適当に詰めて部屋を出る。(勝手に)借りた鍵で戸締まりをし、アパートの階段を駆け下りる。
 まだ日の高いうちに戻ってきた筈なのに、辺りは既に薄暗くなっていた。時間がかかりすぎた。知り合いの子(多分、彼に好意を持っているであろう同じ学部の女の子)が付き添っているとは言え、少し綱吉はのんびりしすぎたようだ。
 あの酷いきず、満身創痍の状態からどのくらい早く目を覚ますか見当もつかないが、もし彼が気付いたのなら今頃どんな気持ちでいるのだろう。
 俺が家に戻った事をきっとあの子に聞くだろうし、そうなれば気まずい思いだってするに違いない。怒るかもしれないし、謝るかもしれない。
 説明してくれれば一番いいのだけれど。
 あの状況に説明がつくとしたら、なんだろう。彼の趣味だとか? つきあう人間は選べと言われた挙げ句の行動の終着点が軽くストーカーでしたとか嫌すぎる。けど、不思議な事に、この期に及んで彼への嫌悪や怒りは――そりゃ少しはあるが――沸かない。殆どゼロに近い。
 一番知りたいのは「何故?」であり、彼なら納得の理由を説明してくれるのではないかという期待がある。信頼というには些か認識が揺らいでいるが、なんとなく彼は自分を害するものではないと思う。
 敵意や害意を出会ってこのかた見たことがない。本当に穏やかな人なのだ。いつも笑顔で、控えめで、真面目で、冗談を本気と思いこむような無邪気さもあり。
 いいやつだよね、バジル君は。ほんとそう思う。
 衝撃の事実(衝撃過ぎる事実!)を目にした後もそれは変わらず、綱吉は彼の回復を願い、早く目を覚ましてくれればいいのにと思う。ところで病院は大学から丁度アパートぐらいまでの距離を反対方向に離れているので、地味に二駅分もの距離があるのだった。歩きってちょっとキツくないか。
 人気のない道路を唐突に横切って綱吉は方向を変えた。来た道を少し戻り、いつも彼が利用していた商店街を突っ切るコースをとる。なんとなく。
 そう、なんとなくだ。
 明るいネオンや看板、人の多いがやがやした通りに入りほっとする。大勢の頭に混じって流れに乗って、駅まで出て、其処からまた裏通りに向かう。
 飲み会でしか通らないような、あまり馴染みのない道を何故か確信を持って進み、高架下をくぐって反対側に渡る。入り組んだ道路。一方通行の標識、歩道から異常に近い家の窓。
 住宅街をぐねぐねと蛇行しながらライトアップされた病院の高い、大きい外壁を見つけて走る。さっさと行こう。急いだ方がいいな。意識の裏側から来る声に従い、正面玄関を走る。
 すっかり人気の無くなった玄関前で、誰かが外灯下に一歩を踏み出して来た。



「沢田、綱吉君?」
 いつもならはあそうですけど、と間抜けな返答をしていただろう綱吉は、開かない口に途惑った。眉が寄り、首を傾げる。
 見知らぬ人だ。若い女性だ。でも多分自分よりは年上。
 綺麗な女性だった。ヒールがなくても十分に高い背で、眼鏡の奥から賢そうな瞳が此方を伺っている。
「ごめんなさい。会うのは初めて……の筈だけど、私は君を知っているの」
「バジル君のお姉さんですか?」
 顔立ちは全然違っていた。多分家族ですらないんじゃないのか。
 でも思考が、こう言えと。その通りに口が動く。それだけ。
「そんなものかもしれないわね」
 ゆるく波打つ髪を撫でて、女の人が笑う。スーツ姿で眼鏡で畏まった印象を受けるのに、なぜだか妙に親しげだった。初対面なのに。
 この感覚は前にもあった。多分、彼と会った時がそうだった。相手からの一方的な親しみを感じて、あの時は嬉しかったが今は途惑う。笑い返す事が出来ない。感情について行けない。
「とりあえず中へ入りましょう。ここで話をするのは懸命ではないわ」


2012.6.5 up


03.

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