カタストロフ
波の音がする。
静かで激しさのない、絶え間なく続く優しい音。
波打ち際で水が弾け、部屋の中に涼しい風が入ってくる。潮の匂いは思ったほど気にならず、風は乾いて肌がべたつく事もない。
水上コテージは通常の四分の一の値段で叩き売られていたにも関わらず、他に客はないようだった。
(無理もねえな)
今は何処もパニックだ。交通は文字通り止まり、異常気象で空のラインはガタガタ。
道路は詰まり鉄道も機能していない。まともに動くのは船ぐらい、車の詰まった大通りを馬に乗って歩いている者も居る。
渦を巻く頭上の雲、時折稲妻が光った。赤みを帯びた光に照らされた不気味な光景が大地を覆う。世界各地で地震が多発し、中には完全に崩れた国もある。
島などは一番逃げ場の無い所だろうと思う。
それでも、この南太平洋の島にはまだまだ人間が残っていた。何処へも行くあてのない地元民、観光に来てそのまま居座ってしまったバックパッカー。最後までハッピーに過ごそうと薬物目当てに流れてきた中毒者。
コロネロはそのどれでもなかった。
強いて言えば置いて行かれた、が一番近い。
しかしそれも自分で望んだもので、被害者意識は欠片もなかった。前準備は完璧だったのだ――内陸部の固い地盤に掘られたシェルターへ食料と資材を備蓄させ、来るであろう厳しい日々への覚悟を決めて、後は乗るだけという段階になって。
彼は急に馬鹿馬鹿しくなってしまったのだった。
要人の詰め込まれた地下シェルターの、あの真っ白な壁を想像しただけでぞっとした。其処で自分は何をするのだろう? そうまでして保つ必要のある生なのか? と。
諦めた訳でも絶望した訳でもない。ただふっ切れてしまったのだ。
高台に設けられたヘリの離着場からくるりと後ろを向いて、真っ青な海に向かって駆け出したのはそんな理由だった。
夕食の材料が何もない事に気付いたコロネロは、町に買い出しに出る事にした。
買い出しと言っても、貨幣は既にその価値を失いかけている。物々交換が確実で、大抵は釣った魚を持っていけばなんとかなった。
大通りに出ると、所々にガソリンの切れた車や壊れた自転車が放置してある。
学者達が予測した地球規模の災害は、起こる前に人々の生活を滅茶苦茶にしてしまった。
(それだけ脆いのだろう)
こういう光景を見る度、文明の持つ脆さを思い知る。輸送一つ滞っただけで大騒ぎなのに、全てが停まってしまえばどうなる事か――
町の中央には、煌びやかなホテルが何軒も建っていた。
こうなる前は高級リゾート地だった島、世界中の富裕層で賑わっていた通り。ブランド品の店が建ち並び、ごみ一つ無く磨かれた道は今や正反対の有様だった。
繁盛しているのはそれらの店ではなく入り口に張られた簡易テントで、感想させた葉の束や黒い塊などが無造作に置かれている。
少し前までなら考えられなかった光景に、無意識に眉が寄る。
薬物に耐性を付けているので、化学合成されたものはともかく売っている品では夢を見る事も出来ない。
島の昔からの住人は精力剤として扱っているし、今や誰も彼もやっている。道を行く人間の半数は咥えている勢いだ。こうなると薬物で幸せになれる人間が羨ましい気もするが、どうしようもない。解除パッチは限られた場所でしか手に入らない。
探し回ってようやく食料品の店を見つけた。
とろんとした目つきの住人に、魚を差し出す。乱暴に頷いて出してきたのは小麦の袋と、油。
「缶詰はないのか?」
「ホテルに残ってるんじゃないか。どうかな…」
金持ち共が逃げ出したホテルは、略奪の嵐を過ぎて静まりかえっていた。
クリスタルのシャンデリアはロビーの中央で砕け散り、ソファーには決まった宿を持たない連中が寝転んでいる。
彼等はコロネロが足を踏み入れても見向きもしない。無関心だ。
この空気は何処にでもあるもので、なげやりな状況をよく表していた。こっちも一瞥して敵意が無いのを確かめただけで、さっさと通り過ぎる。
「…ン?」
厨房を捜して彷徨ううち、奇妙なものを見つけた。
絨毯の敷き詰められた通路、竹の組まれた涼しげな廊下にも、点々と濡れた跡が続いている。
足跡はまっすぐレストラン内に続いていて、コロネロは身構えながら部屋に入った。
ガランとした食堂には食器が散乱し、皿の上の食物は腐っている。人の気配は無い。
(そっちか?)
ガタガタと物音がした。
奥の厨房への扉を開けると、戸棚の前に座り込んで水を浴びている男がいた。
びしゃびしゃと跳ねる水道水が頭を濡らし、顎を伝い、胸元へ流れ込んでいる。
白いシャツを肌に張り付かせ、夢中で戸を揺らしているが本人の膝が邪魔で開かないのだ。
「何やってんだ」
声をかけると、男はびくりと肩を振るわせて振り向いた。
町をうろつく旅行者と何ら変わらない、表情の薄い顔。半開きの口が何か呟いたようだったが、音になる事はなかった。
「お前。いくら暑いからって」
コロネロが水道を締めると、非難するような眼差しが向く。
手を伸ばしてもぎりぎりまで目を見開いたままで、まるで不用心だった。子供のような丸い目がじっと見つめている。
「退け」
体を掴み、避ける。その肌は冷たく、肋骨が浮く程細かった。
よろよろと立ち上がった男は水の溢れた流し台に腕を突っ込み、顔を半分水に浸しながらじろりとコロネロを見た。
棚を開けると、中には缶詰が半分ぐらい詰まっている。
五つばかり袋に入れて、同じ数だけ男に手渡してやると、視線が缶詰に移る。
「これが食いたかったんじゃねえのか」
ラベルにはトマトと豆の写真、あまり美味そうじゃないが、料理には使えそうだ。
男は相変わらず手の中を見つめて、それからかぱと口を開けた。
「おい、何してやがるコラ! 馬鹿かお前っ」
水でふやけたラベルごと缶を口に持っていく。慌てて引き剥がすと、小さく切れた紙切れをぺっぺと吐き出している所だった。
「そのまま食うつもりかよ」
「……」
薬物でぶっ飛んだ男の後始末などごめんだ。
コロネロはナイフを使って缶を開け、スプーンを突っ込んで男の目の前に突き出した。
相手がそれを見つめている内に部屋を出て、そのまま走り出す。距離があるうちはいい。間近で見ると耐えられなかった。
2009.7.31 up
next
文章top
|