カタストロフ
夜半、騒がしい声で目が覚めた。
コテージ近くの砂浜にはいつの間にか人が集まっていて、火を炊き楽器を鳴らしている。
連中が起こす乱痴気騒ぎ。若い時はどうしようもなく苛ついたものだった。
まったく意味がないように思えるそれが、不安を紛らわす拙い手段と知ってからはそんなに腹も立たなくなった。怖いのは皆、怖い。ぐっと噛んで飲み込むか吐き出すかは人の自由。
寝台の上に起き上がり、窓から小さな明かりを見る。
照らされた人の顔は様々だった。人種も格好も表情もバラバラで、ボロ服を着た男と高級品を着飾った女が同じ器で酒をまわしていた。蹲り泣いている少女の手を、にやけ面の男が握っている。
パートナーを捜す儀式はほぼ終わり、手を繋いだ男女がコテージにやってくる。
コトに及ぶ前の浮ついた空気は微塵もなく、皆ダラダラと歩いているだけだった。最も原始的で本能に近い悦びすら失せてしまったかのように。
とは言え、彼等は来るだろう。楽しむかどうかはともかく。
面倒に感じたその時、彼等とは逆方向から砂浜を歩いてくる人影に気付いた。
手足を重たげに動かし、のたのたとやってきたそいつは、戸惑う男女に話しかけているように見える。
しかし音は聞こえず、闇の中で蠢く生白い腕が見えるだけだ。
(あいつ)
暗さに目が慣れると、その人物は昼間ホテルの厨房で見たあの不気味な男だった。
ずぶ濡れで座り込み、虚ろな眼差しを寄越した薬物中毒者。
彼等も不審に思ったのか、男の方が前に出て激しい口調で何か言う。しかしその言葉を遮って、腕がすうと伸ばされる。
指が口元を塞ぎ、数度押しつけた後、刺青の入った首筋に降りた。
触れられた男は身動きもせず、じっとその手に見入っている。先程までの乱暴な空気は消え失せ――そして。
手が離れた。
女が腕を引き、連れを呼ぶ。その手を掴んで不気味な男が迫り、悲鳴が上がった。
周囲の注意が一瞬にして向く。
何事かと駆けつけてくる大勢の気配。しかし、既にあの男の姿は消えていた。
残ったのは黙りこくった男と、異常を感じて泣きわめく女だけだったのだ。馬鹿騒ぎはそれで解散となった。
見た光景が忘れられず、コロネロは情報を求めて町を彷徨った。
意識が朦朧としている連中にものを尋ねるのは骨が折れたが、妙な男を皆見かけてはいるようだ。
――あの、いつもずぶ濡れの男だろ? 嵐でもお構いなしに歩いてた。
――広場の濁った噴水を何時間も見つめていたよ。いいや、話した事はないね。
――女達が手を引いて行ったが、すぐに出てきた。手ぶらだったな。
話はまとまりがなく、大分予測や想像も含んでいたが、初めて会った時の印象とは違っていた。
誰も彼も半分眠り込んでいるようなこの町で、あの男は異質だ。
ひんやり冷たい感触を思い出しては、手を握り込む。
あの目。其処にあるものを映しているのではなく、まるで海の底でも見つめているような、深い色。
捜せば捜すほどに、男は見つからなかった。
あっちで見たと聞く度に足を伸ばして、少し前に去ったと聞く。そんなような事を繰り返し、住人にからかわれる有様だった。
当て擦りや皮肉を苦痛に感じる程若くないが、疑問を放っておける程達観もしていない。
(今日も見えなかったな)
いつの間にか物資を補給する、世間の情報を手に入れるという名目ではなく、町を歩き回るようになっていた。
歩き続けて熱を持った足を、水の中に浸す。
水面は揺れている。ぎりぎり沈んでいない太陽に照らされた赤い水。
波は穏やかで、しかし決して絶える事がない。引けばそれが島の終わりでもある。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
気がつけば眠り込んでいた。足はかろうじて床の上にあったが、裾は濡れて服全体が湿っている。
シャツを頭から抜いて放り出した所で、物音に気付いた。
海上コテージと砂浜を繋ぐのは、竹で編んだ質素な橋。
以前はきちんと管理・修理されていたであろうそれは、今はあちこちが抜けていた。キシキシと鳴る竹の音は、十分な重みを伝えている。
足音はすぐ側で止まった。
扉に鍵はかかっていない。
不用心だ、そう思いながら体の反応は鈍かった。コロネロは寝台に腰を下ろすと、ゆったりとした動作でライフルを手に取る。様々な物を後に残してきたが、これだけは手放す気になれなかった。
ギシ、と扉が鳴る。
隙間から裸足の足が見えた。生白い、日焼けのない肌。あの男が。
視線を上げると、既に彼は部屋の中に居た。
最初に散らばった釣り竿や道具を見て、次に濡れた床を見つめ、首を傾げてみせる。
「何しに来た」
音を聞いてその目がゆっくりと此方を向く。ひく、とその喉が動き、片手が振り挙がる。
反射的に身構えたものの、引き金にかかった指は動かなかった。男はプラスチックのボトルを持ち、頭から中の水をかぶって目を細めた。
びしゃびしゃと床に散る大量の水。
掃除が大変じゃねえかと反射的に悪態を吐く。どちらにしろ汚してしまっていたのに。
「お前、何モンだ」
「…」
ボトルが空になると、男は無造作にそれを投げ捨てる。
近付いてくる。
膝を折り、寝台に足を乗せ、触れるほど近くに顔がある。
初めて見るもののように、大きく目を見開いて頬を撫で、鼻を摘み、瞼に指をおいて顎を包む薄い手。
力を入れて掴まれ、思わず呻く。
華奢な骨格が信じられないほど強い力を持って、抑えつけてくる。
反った首筋にひたりと右手があてられ、その冷たさにコロネロは息をのんだ。
手の平自体も体温があるのかというぐらい冷えていたが、更に冷たい――氷のような感触が丁度手の平の中央に感じられた。
「やめろっ…」
男はどさりと床の上に落ち、のろい動きで手を伸ばした。
それを避けるようにして部屋の隅に移動するが、首筋の違和感は止まない。擦り落とそうとした手にまで広がる冷たさが、一瞬で熱さに変わった。熱い。熱くてたまらない。火傷のような。
武器に手を伸ばすが、既に男は床を這うようにして移動し、水面に身を乗り出していた。
その身体は制止する間も無くずるん、と海面に滑り込む。陽が落ちて真っ暗な海へ。
2009.8.1 up
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