悪魔を転ばせる男
空気はひんやりと冷たい。電源が落ちているから明かりもつかない。それに、明るければ部屋の状態は直視できないものになっていたに違いない。こうして、闇の中に居ても、都会住まいで鈍った鼻にまで血臭がする。
生臭い空気、お上品に口元をハンカチで覆いながら足音を立てないよう進む。
突入という強攻策をとったのはなんだか気配がおかしかったからだが、此処に来て悪い予感は上限を知らず上がり続けている。血臭のわだかまった室内の無駄な威圧感、暗闇の得体の知れ無さ、そして何か。何かいる。
他のフロアを調べに行った他2人とは、完全に切れていた。連絡を取り合っていた無線が切れた。不自然な沈黙と幾ら呼びかけても完全に無視される事態に気味の悪さは頂点に達している。元々勇敢なタチではないどちらかというと臆病な方だ。
奥の寝室らしき扉を見つける。銃を構え直してそっと気配を探る。
ドアノブを掴んで捻ると案外あっさりと其処はひらき、キイィと軋んだ音を立てて隙間は広がっていく。
人の気配はない。
家主であり、あるべき人の、生きた気配がない。
「………ま、こうなりゃ当然か」
一言で言い表すなら―――血みどろ。
天井につり下げられた人間の体はアレ―――屠殺された豚の死体そっくり。違うのは滴り落ちる血を受け止めるバケツが無いことで、人間ブルートヴルスト(別名ブラッドソーセージ。豚の血を材料にした伝統的なドイツの腸詰)を作れそうな大量の血がベッドの中央に沈んで黒ずんだ色を晒している。
まだぽたりぽたりと零れている血と、色を失った生白い死体を見るに、「処理」されてから相当な時間が経っている。勿論、絶命している。誰が見ても生命の気配はない。
「………」
部屋を保存すべきか、義務通り脈を診るか束の間悩んだ。
しかし足は小刻みに震え、入っていく事を許否する。一体、なんだって俺ばっかりこんな目に遭って、事あるごとかり出されて………いつもの愚痴が嘔吐感と一緒に込み上げてきたところで、唐突に振り向いた。
銃を構えるより早く叩き落とされ、首にガッと力強い指の感触が食い込む。吊り下げられている、と認識する頃には既に意識が薄らいでいた。
「誰………」
腕一本で小柄とは言え一応成人男性の体を支える強靱さと、静かでまるで気配を感じさせないその足運びに、頭の警報とランプがぐるぐる回る。恐らく、残りの2人もこれにやられたのだろう―――しかし誰が―――此処は殺人の、容疑者の家だ―――共犯―――否―――様々な思考が頭の中を飛び回り、酸欠の脳みそを揺さぶった。
闇だ。
真っ暗闇に近い。目張りされた窓と窓、あらゆる隙間。
偏執的なまでに陽光を嫌った容疑者は、自分だけの城を作り上げていた。おかげで正面にいるのに、今正に殺されかけているというのにその顔が見えない。かろうじて、着ている服と影と有り得ない程の怪力で男だという見分けはついた。
指を剥ぐ。ゼエゼエと息を継ぐ。男は一瞬手を緩めてから、再び締め上げた。気管が塞がれるよりは首の骨が先に砕けてしまいそうだった。仕方なく、押さえの手を外して懐に手を突っ込む。
押さえられる寸前でバッヂが転がり落ちた。相手はそれを一瞥し、足先で転がしてから何やら呟いた。低すぎて聞き取れない。
「がはっ」
唐突に自由になる。呼吸を戻すために激しく咳き込み、うっすら埃の積もった床で這い蹲る。
黒いブーツの踵は遠ざかっていった。
奇跡的に無事、と同僚は評した。それは十分に納得する所だ。
あの後捜査のため乗り込んできた後続が、既に冷たくなっている残り2人の捜査員を見つけるまでそう時間はかからなかった。
指の痕がくっきり残る首に包帯を巻いてある。まだ痛む周辺をそっと指で押さえる。
「それにしても」
現場の作業はやけにテキパキしていた。事件も、(そう、これは事件だ!)至極あっさりと片付けられようとしている。
先を読んだように、向かいで煙草を吹かしている口元が歪む。
「この辺りはイタリア系が多いだろ―――」
アレだよアレ、とやけになったように煙を吐き出す。
様々な人種が複雑に絡み合ったこの国の裏。
当然法律でくくれない事もある。
特に自治の意識が高いイタリア系移民の子孫達は、彼等独特の道徳を持っている。服従の掟、沈黙の掟………それらは他民族にとっては厄介極まりない障害と化す。彼等の密な繋がりは単純なものではない。
容疑者にして被害者となった男の捜査がおざなりなのは、既に一部では犯人が判明しているからだろう。しかも、それでもなお逮捕に踏み切るだけの証拠が無く、上部はその気もない。
害虫を一匹踏みつぶした程度にしか思われないのだ。
「でも、まだ被害者全員が見つかった訳じゃないんだし………」
「被害者の死体が、だろ」
「分からないって。今まで彼は攫った順番に子供を………手にかけてきたわけじゃない。中には3週間も彼の元で生き延びていた被害者だっていたじゃないか、だから………」
「捜査は順調に進んでる。何の不満があるってんだ」
不満ではない。
寧ろ、勘だった。今まで幾度も危ない目に遭ってきた、自分だから感じるものだ。
「あの辺は閑静な住宅地で、物音や何かが漏れる心配だってあるんだ。冷静な犯人がその事だけ気にしない事はないし、今のところ自宅で犯行がされたっていう証拠も見つかってない。だから、別にあるのじゃないかと思う」
「う………」
マフィア絡みで動きの鈍くなっていた同僚は、その言葉で立ち上がった。
「お前の意見も尤もだが。そうだな………少し現場の奴等にハッパかけてくる。それと、鑑識にも寄ってこようじゃねえか」
しつこく食い下がった甲斐はあった。
本当なら自分はもっと無気力な人間なのだ。
バスに揺られながら外を眺めると、美しく整った街並みは遠くなっていく。終点まで乗れば郊外だ。途中で下りる。
まだ幼い子供を攫っては、閉じこめて殺す。犯人の心理は全く解らない。理解はするが、納得も同調もしない。
どちらかと言えば己の性質がそうであり、被害者に感情移入する事が多かった。何故かそういう人種に気に入られ、ピンチに陥ること数え切れない。いつも紙一重で逃げてきたけれど、こんな成長して子供から見ればおじさん―――になった訳だけれど、気持ち的にはまだ子供じみた怯えが根ざしている。
ネタ元は同業者からで、それも微妙にお前は部外者だからいいだろうという判断で漏らされたお情けだ。
まさかこうして直々に会いに行くとは思っていないだろうし、だからこそノーマークで此処まで来られた。しかしそれも、明らかに東洋人の自分がのそのそ入っていけば無駄だった。
人々の視線はあからさまに向いている。
やがて教えられた通り、込み入った路地から一軒の酒場へ着いた。一見普通の店構えが、中に入ると地元の若者達のたまり場になっている。入り口で金をむしっているのはガタイのいい男が二人、後ろに草臥れたシャツを着た四十代半ばの男。目線でだけちらりと此方を見る。
一瞬の迷いも戸惑いも見せず、男はぶっきらぼうに言った。
「なんだお前は」
「客」
「帰んな」
名前は出すなよと念を押されていた。
商売がやりにくくなるというのだ。同じイタリア系、同じ殺し屋でも、格が違いすぎるという。「俺はチンピラで、あっちは訓練された軍隊みたいなもんなんだ」常に自分を大きく見せたがる奴にしては愁傷な言葉と思ったが………
仕方がない。
バッヂを出して掲げると、む、と唸る。
正式に警察の人間ではないし、逮捕は出来ないし、捜査とてパートナーとなる刑事が居て初めて許されるのだが、物事はそう規格通り運ばない。
特別借りているコレのお世話になる事は多い。
「本当に、少しでいい。話を聞きたいだけだから」
「変なことするなよ」
何事か呟いてから男は先に立って歩き始めた。大勢の若者がたむろするフロアを抜け、奥の扉を開くと其処は通路になっていた。地下2階。思ったより広い。
2006.6.16 up
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