出張



 徹夜の身体を風呂に沈めて、ふーっと一息。
 こんな贅沢な事ってあるだろうか?!
 寝不足で妙にカッカしていた頭があたたかいお湯の感触でとろとろととけていき、うっかり湯船の中に頭を突っ込みそうになる。
 極楽極楽。
「お客さーん。お背中流しましょうかー」
「…」
 要らねえ……!
 けど、けど、ああもう、喚くだけの力も残っていない。
 俺はやさぐれた目で振り向くと、脱衣所の方からにこやかに手を振っている先輩に……
 オヨ。服着てる。
「お気遣いいたみいりますが結構です」
「残念」
「入らんのですか」
「ちょっと、打ち合わせをね。急いでね」
 よしさっさとあがろう。
 決意と同時、やはり出張の用事が柿本にあったのだと納得する。

 柿本はこの旅館の跡取り息子なのだそうだ。
 ほんの6歳前後でこの山奥の旅館を経営する夫婦に引き取られた養子で、学校卒業までは其方の親類縁者に預けられていたらしい。大学を卒業後、家業を継ぐべく戻ってきたのだ。
 そんなような事情を淡々と話す柿本は、早くも旅館の若主人として常連客にも覚えられ、従業員達の信頼も厚いらしいと先輩が話してくれた。
 見た目はぬぼうとしているが、これで柿本は几帳面である。経営などという七面倒くさい事にあっているのだ多分。
 現在は養父の体調が思わしくないため、仕事の殆どは柿本がこなしているという。
 はやく女将さん貰わないと、と従業員に囁かれる毎日だそうだ、可哀想に。

 頭と身体を同時に洗いながら俺は泡だらけになって考えた。
 寝不足の頭では大したことは思いつかない。けれど、こうして見ると色々と複雑な事情があるのだなあ。

 確か、先輩も養子だった筈だ。
 学習塾は彼自身で立ち上げたが、両親共に医者、大きな病院を経営しているという。
 先輩は医学の道に進まず、なんの気紛れか塾経営などしてしかもそれが結構盛り上がっているものだから、面白くないのだと。
「元々別居状態でしたから、親という感じはないですね。投資者という見方が一番近いんじゃないでしょうか」
 塾経営が失敗して、泣きついてくるのを待っていたそのご両親は、あてが外れて怒り心頭に発しているという。
 けろりとした物言いに呆れたことは事実だが、同時になんだか羨ましいような。
 すげえなあ、流石わがままな先輩と感心した事も事実。
 俺は遠慮ってものを知らないので(先輩に関してはね)、ズケズケと聞いた。
「どうして医者にならなかったんですか」
 先輩はとても頭が良く、手先も器用で血が嫌いという事もない寧ろ好きなので、医者はぴったりだと思ったのに。
「嫌いなんです」
「へえ」
「医療行為自体があまり好きではありません。病院も、病人も」
 その時遠くを見ていた先輩の横顔がシリアスだったので、俺はそれ以上何も言わなかったけれど、何か事情がありそうな空気は感じていた……

「ぶくぶくぶく」
「……おい」
 ざばあ、と湯から上げられて初めて気付いた。
 あまりにとろとろゆったりし過ぎて、風呂の中で寝ていた!!
 すっかりのぼせて真っ赤になった身体を引き上げてくれていたのは幸いなことに柿本だった。
 ああ良かった。
 先輩だったら目も当てられない大惨事になっていたかもしれない。
「す、すまん…」





 柿本はヒイコラと俺を背負って古くてミシミシ言う階段を上がり、部屋へ敷いた布団へ寝かせてくれた。
 更にアイスクリームの袋を剥いて、食べさせてくれた。
 おいしい。
 実においしい。
 懐かしいあの味。ミルクバーのひゃっこい表面が口の中に丁度収まる角度で柿本が持ってくれているので、俺は指一本動かすことなく冷たさを摂取できるのだ。なんて画期的システム。
「あああ―――ッッ!!!」

 と思ったら、うるさい奴がやってきた……

2008.8.17 up


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