はしる/2

 

 

 噛ませた布が千切れそうになっている。
 外して、その間にも舌を噛まないように己の膝を食わせ、苦しそうに唸る口にまた新しい布を当てて縛る。
 その作業自体は捕虜を尋問する時と同じだ。死なないよう、自由を与えないよう。
 暴れ方は少なくなった。男は人に世話をかけることを異常に恐れていて、一人の顎を蹴飛ばして歯を一本駄目にしてから随分大人しくなった。
 もっともそいつは虫歯でイカレていたグラグラの歯で、蹴られた方は感謝していた。隊の皆も男が居る状況に慣れ、軽い挨拶や言葉をかける者も少なくない。生き残りが居る町には度々立ち寄っていたが、今回ほどに争い無く物資を補充できたことは無いのだ。その感謝だろう。
 人気のない(ウロウロ動く死体もやけに少なかった)町に、男が一人。気が狂っている奴なら今まで見たが、驚くことに正気だった。多分。
 大抵正気の人間は――それでも少しばかりおかしくなっているもんだが――必死で仲間に入れてくれと頼むか、異常な程の敵意で向かってくるかの二つだ。
 全くの無関心は初めてだった。
 弾丸と武器の補充をしている間、男は気にする様子もなく自分の"仕事"に集中していた。死体を集めて墓地に埋めるだけの単純な作業だが、その手間はかなりだし第一力仕事だ。ヘトヘトの状態で襲われたらひとたまりもないのに、どうやら男はそれを何ヶ月もやり遂げていた。
 実は、武器屋と同時に男が根城にしていた店の方も調べさせていた。食料はもって一月、最低限食い詰めれば二月の乏しい物だった。
 冬が来て本格的に雪が降れば食べるものなど何もなくなるというのに、男は町から離れようとしなかった。何か執着があったのだろう。いや、言葉を交わした訳ではないが、なんとなくそう思えた。
 そしてそれは正しかった。積めるだけの物資を積んで町から脱出した後、目を覚ました男は真っ先に帰してくれと懇願し、望みが叶えられないと知るや走っている車から飛び降りようとしたからだ。
「口開けろ」
 噛ませた布の間から赤ん坊用の離乳食を流し込む。
 抗議のつもりか、初めは食べさせたものを全部吐き出していた。小さな診療所から持ち出した大量のビタミンやブドウ糖があるので、点滴を使えば飢え死にさせる事はない。黙って針を入れると翌朝からは吐き出さなくなった。小便に行く回数が増えて手間をかける上、赤ん坊のようにみっともないからだ。

「済んだようですな」
 割と早くから居る一人だ。医者の心得があり、軍に居たこともあったらしい。
 元々七人で移動していた所を、一人減って四人増え、それなりに規律のある隊に再編成して――またどうして面倒を抱え込んでいるのか、自分でも分からない。
 あの場所で一人死なせるのが哀れだ、というのはただの感傷で十分な理由ではない。
 役に立っているとは、お世辞にも言えない。利用価値ゼロの人員を受け入れられる程余裕があるのでもなく、燃料が尽きればそこまでの旅だった。意味がない。
「寒くなると――彼等の機能が低下する、なんて事はないでしょうかねえ」
「…さあな。一体なんで動いてるかも分からねえしよ」
「我々とは違う法則に生きているのでしょう」
 燃料系は大きく傾いていた。積んであるガソリンを注ぎ込んでも、タンクに半分にも満たない。
「補給のあては」
「午後にはまた町を通りますが、ガソリンがあるかどうかは行ってみないと…ね」
 ごもっとも。
 つるりとして年齢を感じさせない肌が車のライトに照らされている。
 穏やかな容貌とは裏腹に、農耕用の鋤で五人は倒す。逸材というより――そういう奴しか残らなかったのだ。
 あまりに厳しすぎる。
 補給は運任せ、常に襲撃の危険があり、他の人間の協力は期待できない。
 今まで拾った奴はともかく、苦難を共にしてきた隊員の一人、歴戦の男を殺したのは死人でも事故でもなく生きている人間だった。装備をはぎ取る為一人に寄ってたかって十数人が群がったのだ。
 元は傭兵だったのだ。当然、向かってくるなら生きた人間だろうと躊躇いなく始末する。食料も物資もたっぷりため込んだ奴等の倉庫を見て、成る程と思った。納得はした。やりきれなかっただけだ。





 町には人気が無く、死人の姿も見えなかった。
 小さな場所だし、近くにはもっと大きな都市がある。人を求めて移動したのか――がらんとしたゴーストタウンには、僅かだが燃料と食料が備蓄されていた。災害に備えたものか、日付は随分と古い。
 久しぶりに火を炊く許可を出した。
 食事を終え、見張りを立て。念のため再度周囲を見回って来ようとした時だ。
 男が、転がったまま視線を合わせぐうぐうと唸る。
 分かりやすい合図に、足と左手だけ拘束を解き、背中から伸びた紐を握って外へ放す。僅かな振動で大体の動きが分かり、いつでも力任せに引き摺れば、不満顔の男がずるずると地面を擦って釣れるのだ。
 暗がりに消えた男は、数分で用を足して戻ってきた。
 元通りに縛ろうとすると、首を振って唸る。顔を顰めても見せる。初めて会ったときより大分表情や人間らしさは戻っている。しかし、油断は出来ない。
「ウゥ…」
 不満気に唸る。犬のようだ。
 軽くいなしてまた縛ろうとした時だった。


 周りに気配が集まるのを感じた時、見張りが何事か叫んだ。叫びは悲鳴に変わり、骨の砕ける鈍い音もした。
 死人にしては動きが速すぎる。暗闇に目を凝らすと獣の姿が浮かび上がった。
 無人化した町で飢えた犬達が、群れを作って狩りに来たのだ。この辺りは狩りが盛んで、飼われている犬も大型の狩猟犬が多い。野生に帰るのも早いだろう。
 第二弾が襲ってくるまでには、迎撃態勢は整っていた。皆それぞれ自分のエモノを構え、向かい撃つ。
 勢いよく跳躍した、その殆どが弾をくらって落ちる。
 次が来る前に車へ戻ろうと、皆が後退を始めた時、初めて気付いて足下の男を見た。

 男は起き上がり、不自由な左手で近くにあった棒を掴んで構えていた。死ぬ気じゃない。少なくとも、此処では。そう思うと、気分が高揚した。この状況で。
 背中に結わえた紐を切り、自由になった右手はまず顎に噛ませた布を外した。はあ、はあ。大きく息を吸い、身を縮こませて、じりじりと後ろに下がる。男の目には完全に正気が戻っており、命の危機を感じて怯え、緊張していた。全てを厭い、拒絶していたあの色が消えている。
 犬は気にならなかった。襟首を掴んで引き摺って、荷台の開いた下半分から走る車に飛び乗った。


「犬だ」
「ああ」
「生きてりゃ人間でもいいらしい」
「腕をやられたのか」
「最初は首に来たのさ。振り払ったら骨噛み砕きやがった」
「やられたかと思ったぜ、あの悲鳴ったら…」
 コンテナを前と後ろに二分しているのは先ほど積み込んだ物資だ。山になっているその陰で、くぐもった仲間の声を聞きながら、全身で藻掻くその身体を押さえる。腕を噛ませ、腕を捕らえ、足を割って壁に追い詰める。
「隊長ォ」
「なんだ?」
「はは、生きてたや。しばらく其処で大人しくしててくださいよ」
「今停めちまう訳にはいかねえからな。いいぜ」
 もう、しない。ちがう。首を振って腕を外した口がパクパクと音のない言葉を喋る。そんな事は分かっているし、意味がない。
 ちがう。
 そうじゃない。オレは善人でも聖人でもない。
 今なら理由がはっきりと見える。ただ、欲しかっただけだ。物のように奪ったのも、本人の意志に関係なく長らえさせようとした行為も、全てこの下劣な衝動を元にしている。泥で汚れた頬を拭い、鼻先を擦り付ける。叫ぼうとした喉を塞いだ。
「っ…ゥッ…」
 困惑の色を浮かべ、男は身を捩って逃げようとする。抵抗し続ける。
 ふとこんな状況に疑問が浮かぶ。国が、世界が、その有り様をがらりと変えてしまう前だったとしたら? 元の暮らしであれば、こんな事はしでかさなかったのではないか――



 ――いや。
「ふっ…ぅ……ッ!」
 それでも機会があればやっただろう。人とはそういう生き物だ。最も本能に忠実な、悪知恵の働く獣。鎖が切れた途端全速力で駆け出すのだ。