第三の眼
その後すぐに少年は席を立ち、ごめんなさいと一言謝って通路を足早に去っていった。
まったく、訳が分からない。あっけにとられた骸が視線を巡らすと、既にトイレ前で目のあったあの男は姿を消していた。
恐らく上の階のファーストクラスに席を取っているのだろう。
会いに行くことも出来るが始末は不味い。
此処は密室で、おまけに高度八千メートルの上空をジェットエンジンで矢のように進んでいる真っ最中だ―――
中継ぎに下りた空港では北京語が飛び交っていた。物々しい警備員の数と厳しい顔つきの空港局員の中、乗客達は何事かとざわめきながら荷物を受け取るなりカウンターへ行くなりして、長い航路の疲れをほぐしている。
骸はまだ寝ぼけ眼の犬を千種に任せ、一足先に下りていた。拘束なのか保護なのか、微妙なラインで人波に揉まれている男の姿も気になったがそれ以上に、あの不思議な少年が気になっていたのだ。
彼は骸の姿をみとめるなり、急いでタラップを下りた。小走りに駆けていく小さな背を見て骸は確信した。彼は何か知っている。
見つけるのにそう時間はかからなかった。電話ブースで受話器に向かい、辿々しい英語を紡ぎ出している少年の姿は目立ちこそしなかったが、風景に溶け込むほど旅慣れてもいないのだ。
受話器を耳にあてたまま頭をくしゃくしゃと掻き混ぜ、喉をひくつかせて怯えた視線を辺りに巡らす。
彼は2階からそれを見ている骸には気付かない。が、広いエントランスを走って向かってくる数人の男達には気付いたようだ。大きな目を恐怖に見張り、慌てて受話器を置いて逃げ出そうとする。しかしものの数秒で取り囲まれ腕を掴まれた。弱々しい抵抗を繰り返しているが、男達は半笑いのまま余裕で受け流している。
骸は手すりから身を乗り出し、ニイと悪辣な笑みを浮かべた。
匂いで分かる。奴らはマフィアだ。黒社会の構成員である。
(遠慮は要りませんね)
階段を下りるなどという手間はかけず、骸は身を躍らせた。見た目に合わない強靱なバネで跳んで目当ての落下地点に寸分違わず降り立ち、突然の襲撃に硬直する男達の合間を縫って少年を引きずり走り出す。
「待て!」
ぞろぞろと追ってくるその姿を確認するまでもなく、走る二人と男達の間に犬と千種が立ちはだかる。眠気に目を擦っている犬と、いつもの無表情で武器を構える千種は主の楽しそうな顔を一瞥すると、頷いて一斉に反対方向へダッシュをかけた。
驚いて立ち止まる少年を促し、骸は外へ出た。
タクシーを捕まえるべく乗り場へ急ごうとする、彼の手を少年がもう一度引く。
「待って」
まただ。
少年はあの、例の視線を空港正面玄関へ向けた。半開きの唇がわななき、次の瞬間には固く瞼を閉じて身を折る。
「はあっ……はあっ…」
突然苦しそうな様子を見せる、が、蹲る寸前で唐突に走り出す。しっかりと骸の手を握ったまま。
丁度追っ手を倒して出てきた犬と千種の前を通りかかったので首を傾げながら手招きをする。
4人はもつれるようにして走り出した。タクシー乗り場を過ぎバスターミナルまで来た辺り、少年が息をのんで振り返った。
轟音がした。
火の手が高々と上がる空港を後に、バスは早朝の道路を走る。香港とは思えぬほど空いた道路に犬がはしゃいだような口笛を吹いたが、千種の咎める視線にあって止めた。
「………う」
まだ荒い息をして、青白い顔で項垂れる少年は握ったままの手を離そうとしたが、骸がそれを許さなかった。
離しては逃げられると知っていたから。
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