部屋に帰るなりドアを閉めて鍵を閉めて、ふらつきながら冷蔵庫に辿り着く。飲み物と飲み物と飲み物しか入っていない借り物の小さな扉を開けてミネラルウォーターの封を切り、カラカラの喉に流し込む。水は零れて口端から盛大にしたたり、床に零れてビチャビチャ言った。
口を乱暴に拭い、ワンルームの端に寄せたベッドへ倒れ込む。酷い。俺は酷く混乱している。まともに足も動かないのに、一体どうやってココまで帰ってきたのだろう見当もつかない。引きずったコートが邪魔で放り出すと、ネクタイをむしる。シャツのボタンが弾け飛んだ。ちくりと小さな痛みが、指で触れたそこに。なんだこれは。

洗面所へ駆け込んだ。鏡の前で泣きたくなる。首筋に散った赤い痕は夢ではない。落ち着け、落ち着け。俺は不況の煽りをくらって政府の犬になるしか無かった哀れな外国人移住者、その末裔だ。世間ではそれを幸運というか不幸というか、その人の価値基準にかかっているが。(最も経済的に余裕があるわけでもないわけでもないこの中途半端な状態をその日の暮らしにも困る人間にすれば馬鹿野郎と罵られ殴られそう)
大学を卒業して直ぐに就職出来たのはともかくにも幸運と言えるだろう。それがずっと書類仕事だったなら、上司の妙な気紛れと間抜けな犯罪者が俺の証言で死刑宣告をくらわなければ。俺はずっと平安に暮らして行けた筈なのに………

この大都市に移ってきてからは地獄の日々の連続だった。俺は無能で声ばかりでかく、自分ではいっぱしの大物を気取っている上司に振り回され、小突かれながら砂糖だらけのドーナツを食い、煮出した黒い液体(コーヒーなんて呼べない、最低の泥水)を啜ってひたすら有色人種を罵る人種差別的発言に耐えていた。一言告発すれば彼はその全てを失ったかもしれない。けれど、もうそんな気力すらなかった。仕事をこなし、捜査をし、市警との軋轢をうまくかわして犯人を挙げる。そのことだけ考えて突き進んだ。教会の告解室でぼそぼそ懺悔をしなければならない事なんて。キリ無く並ぶ募金箱の最後の列を無視したとか、いかがわしい界隈に足を踏み入れたとか?それだって仕事の為だものしょうがない。あの時はクソ上司に急かされて連れて行かれたんだから。

それなのに。

無能なアイツがやった凡ミスのおかげで俺は数時間前、白亜の豪邸で後ろ手に縛られ拷問を受けていた。正確に言えば、受けるところだった。数回腹を蹴られただけで俺のバカ上司のとんでもない勘違いが露呈したからだった。
あろうことかあのバカは、捜査の対象を間違えた。調べるべき相手を間違え、捜査すべき場所を間違え、ついでに相手の力も見切らぬまま燃える火の中へ飛び込んだ阿呆という訳。
捕まった俺に見切りを付け、さっさと抜けだしたはいいがそのままその目当ての組織の網に飛び込んでしまい、捕まった。そんな報告を他人行儀に聞いていた俺に男達は寛大にも同情の視線を送り、縄を解いてくれた。ありがとう、ありがとう、ありがたくて涙が出る。

「どうするつもりだ?」
彼等のリーダーが代表して問うた。俺はその時やっとその男を正面から見ることを自分に許した。暗黒街の顔役の一人、その見目麗しさに添うだけの人望と子供達の憧憬を一身に集め、同時にライバルと俺ら―――政府の犬に死ぬほどの恐怖を与える男。彼の手がけた裏のビジネスは絶大な成功を収める故にその余波は表の世界にも広く轟く。今ココで俺が彼の悪事の確固たる証拠を掴んだとて、起訴することも出来ず速やかに消されるだろう権威。住む世界が違うのだ。
俺は卑屈な目線で少しだけ頷いた。黙って部屋を出ようとしたが、両脇から腕を掴まれて情けなく呻いた。
「痛い」
「離してやれ」
背が震える程優しい声に、燃える炉のような眼。ライオンに例えられる彼の容姿はまったく堂々としていて、俺のように常に背を丸めて歩く外れ者とは違っている。だから視線を合わせこうして同じ土俵で話すこれは異常だ。異常ついでに、なんでもいいから言ってやれという気分にもなる。
「あんなバカでも死んだら困る。行くよ」
「一人でか」
「ぞろぞろ連れてきてみろ。助かった後に俺の首を絞めるのがオチじゃないか」
「俺も一緒に行こう」
ぽかんと口を開けた俺の間抜け面はさぞかし酷かった事だろう。男は話は終わりだとばかり身を翻して上着を着た。
「正気か………?」
「至って正気さ。ただ一つ条件がある」
「………俺の権限は限られている。上司と交渉してくれ。脅しつけたっていい」
「お前でいいんだ」
少し首を傾げ、ニコリと笑う。
案外と人懐っこいそれに、逆に警戒心が呼び起こされる。俺は反射的に後ろへ下がった。が、遅い。男は屈み気味になって俺の耳元で囁いた。
「お前がいい」

2007.2.2 移動


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