この吐き気をのみこんでしまえば

 

大事な商談の前だってのに。
青ざめた顔が映っている。景気の悪いその面よりも、目が行くのは鏡の悪趣味な金の装飾。水滴を拭い、タオルを手探りで探す。ふわりと心地よい感触も慰めにはならない。

憂鬱だ。
仕事上付き合いや交渉が必須であるとはいえ、元々好かないのだ。
中国系マフィアはイタリアマフィアとはまったく別の物で、その性質はアジアらしく得体が知れない。底は暗く、黒く、目を凝らしても何も見えない井戸の深淵のよう。まだ日本のヤクザの方が理解しやすい。
目線だけで会話をし、なんの前触れもなく失敗した仲間の喉をかっさばく。表情が無いのも残忍に見える要因の一つだろう。彼等は無意味な威嚇や気をはりあうのではなく、正真正銘ビジネスにしか興味がない。暴力は手段の一つ。最も頻繁に下される制裁は死。

慣れたとはいえ、自分の本質はまだまだ臆病なままだ。殴られるのも殴るのも嫌い。殺すのも殺されるのも嫌だ。血を見るとぞっとする、吐き気がする。
ただ全てを顔に出さなくなっただけで。

ノックの音に振り返ると、すっかり支度を済ませた兄弟子のディーノが入ってきた。
今回の取引は彼と共同で行う。強かなやつらも二つのファミリーを相手に騙しは無理だ。片方が落とし穴に落ちれば、片方は落下を免れ、そして復讐をするだろう。素早く、容赦なく、己の意地とプライドにかけて。
「大丈夫か?」
「うん」
「顔色が悪いぜ」
香港の夜景をバックに立つ彼はとても見栄えがする。モデルのように長身でスタイルの良いディーノ。若いながら、ファミリーの長としての全てを持っている。頭脳、戦闘能力、統率力。しっかりとした実力に裏付けられた自信は威厳となり、その美しい容貌を飾る。
対し自分は痩せて小さく、特に目立たない顔をしている。醜い。ファミリーの中で一番愚かで浅はかでびくびくと怯え、度胸も知恵も力もない自分がボスをしているというのは、一体どういう事だろう。
答えのない問いは苛立ちか、諦めという感情を産み落とす。選んだのは後者だった。
「お待たせしました。行きましょうか」





―――これを予感していたのかもしれない。
暗い店内は既に満員の客で埋まっている。金のかかった格好をしている者ばかり、女連れ、手下連れ、不気味な笑みを浮かべた一人一人の顔は欲望にギラついていた。
ビジネスの話をするのに、相手方の店に招待。よくあることだ。先月行ったシカゴではそんなナイトクラブを一晩、獄寺がいがらっぽい煙漬けにした。ちっとも話が進まず、女ばかり側に寄ってきて酒やドラッグを勧めるから彼は苛々して眉間のシワは酷くなった。
そのキツい視線に晒されて縮み上がっていた男の顔を思い出す。そんなことをするぐらいなら止めればいいのに、と他人事のように思った。
実際他人事である。忠誠を誓う獄寺は初めて会ったその時以来、そんな顔を自分には向けない。横から見るだけだ。
「ツナ」
ディーノの指が手に触れている。人目がなければ、身内だけならこの男は親愛を込めて肩を抱き、励ましてくれるのだろう。だが今は仕事中で、甘えや依存は厳禁。
相手に軽んじられる事こそ、この業界の最も避けるべき事態だ。

ショーが始まろうとしている。黒天鵞絨の布が冷房の風にゆらゆらと揺れている。
暑い季節ではないのに、既に店内は客の熱気で蒸れていた。
一段上がったVIP席から見渡すと、舞台の端から端まで見える。出口はあちら、裏口は多分そちらの奥、無意識に確かめて視線を戻すと無機質な黒の瞳にぶつかった。
中肉中背、がっしりとした体つき。切れ長の目のなかなかの美男だが、目つきが鋭すぎて良い印象は持たれないだろう。女は好くかもしれない、あの不可思議な生き物は時に居心地の良い巣穴よりも、獰猛な猛禽類を好むことがあるからだ。
「いい店ですね」
「ありがとう。ショーも、お気に召して頂けると良いのですが」
横で太鼓腹を揺すっている、典型的な金満家タイプが今回の取引相手だったが、寧ろこの側近の方が組織を動かしている。暗い隙のない目がまんべんなく店中を監視し、黒服の部下がその耳に囁きを落としていく。
見た限り、彼は自分のボスに心から忠誠を誓うタイプではないようだ。
獄寺のような信頼がその目には浮かんでいず、礼儀正しいがどこか他人行儀である。傀儡という言葉が頭に浮かび、思わず苦笑が口元に滲んだ。

これと俺とどういう違いがあるというのだろう!決定はファミリーの会議で下され、助言と言う名の指示が傍らから与えられる。自分はただ此処に留まっているだけだ。部下は必死になってこの人形を護り、崇め、護り。
例え手が及ばず死んだとしても、何一つ困ることはないだろうに。

暗くなった。ショーの開始が低い、ぼそぼそとした声で告げられ、正面の舞台に体を向ける。
既に興奮しきった客が肘をつつきあい、カクテルを喉に流し込む。彼等の間で回される巻き煙草の煙はマリファナの匂いがした。
「上物だな。どっから流してるんだ?」
鼻をひくつかせたディーノがそんな呟きを漏らした。相手方には聞こえない声量も、腕と腕が密着している此方にはよく響く。低音が耳に心地よく滑り込み、まるでこの不吉な空気を束の間、和らげてくれた。
言葉の内容は物騒だが、この異質な空間よりは馴染みのある話題だった。するすると幕が開き、暗いままのステージを何やら人影のようなものが行き来している。

スポットライトがあてられた中央には、手枷をはめられた女性が俯せに転がされていた。ああ嫌だ。これ系は嫌いだって言ってんのに。
隣のディーノも眉を寄せている。束の間立ち上がって此処を出る、という希望が胸に浮かんだが幻想だった。これは仕事で、楽しみの為ではない。
「大丈夫か?」
ディーノは同じ問いを繰り返す。小声、イタリア語。しかし3度目は日本語だった。
既に気分はどうしようもなく悪くなっている。皆舞台に視線が釘付けで此方には向いていない―――表向きは。
内心は仮にもマフィアのボスが、余興程度で取り乱す子供なのかという底意地の悪い採点の真っ最中に違いない。

ぐったりと伏している女はぴったりとした薄物の衣をつけていた。美しいが、娼婦のようには見えない。濃い化粧に慣れていないような気がする。実際、素顔の方が何倍も美しかろう。
黒く目立たない衣服を着た黒子役の下っ端が、その顎を持って客席に顔見せをする。虚ろに彷徨う視線。薬かアルコールで彼女の意識は朦朧としている。
ただしその胸は大きく上下し、時折喘ぎ声を上げて緩慢に身を捩った。その身を捕まえている男が衣の裾をわざとのろい仕草で捲り上げていく。
客席を見渡すと反応は3つに分かれている。女は顔を顰め口元を覆い、男は興奮したように身を乗り出していた。その他無関心、またはそれを装う静かな面。
白い腿が露わになり、前の客席からは下品な感嘆のため息が漏れた。席によっては女の秘部は見えている筈で、口を湿らす酒は興奮を宥める作用も持っている。時折、タイミングを計ったように酒をつぎ足す店員が各テーブルについていた。
「まったくイイ趣味してるよ」
退屈だという意味を込めて呟く。まだ。この程度なら腐るほど見た。大丈夫。
嫌な予感があたらない事を祈っていたが、頭の脂ぎってボールのようにふくれた顔は、下品た笑みを浮かべた。

舞台袖から男が2人、出てきた。まだ少年と言っていいほど幼い。
舞台の中央では女が下肢を露わにされ、振動する器具を入れられて激しく肩を上下させている。先ほどよりも意識ははっきりしてきているようで、隠すように足を交差させては取り押さえている男に叱られていた。
無理に開かせたその足を、少年達は掴んでいとも簡単に腰を入れた。一人は女の薄い衣を剥いで乳房をむき出しにする。か細い悲鳴が上がると観客はゲラゲラと笑い声をたてたり、囃す。下品な野次も飛ぶ。
少年達はそれぞれとても美しかったが、張り付いたような笑みは嫌な感じがした。性欲にがっついているようには見えず、どこか余力を残して獲物を苛む。弱々しい抵抗を愉しんでいる。

彼等が女を犯し始めた時はむしろ安心した。それはごく普通のショーでしかない。
女を前と後ろとで辱めながら、2人が舌を絡めるキスを始めても、まだ落ち着いていられた。互いの手を握り合い、卑猥な手つきでまさぐりながら高まったようなうめき声を漏らす。
此方がメインなのかもしれない。1人が女から己を抜くと、まだ女の口を犯したままの片割れの後ろに回り込み、突き刺した。
男同士のまぐわう姿を見ても、別にどうも感じなかった。見せ物は見せ物、あれらは全て違う世界に生きている。透明だが厚いアクリルの窓の向こう側のように。

「………ツナ」
平気だという意味を込めて隣を見上げると、ディーノは派手に顔を顰めていた。彼の嗜好を詳しく知ろうとは思わないが、噂は時々耳にしていた。女優やモデル、社会的地位の高い美しい女性の名ばかりが聞こえてくるのだ。
ノーマルな彼には耐えられない出し物なのだろうか。
いつの間にかディーノは腕を離し、こめかみに指をあててソファーに深く沈み込んでいる。不機嫌がありありと分かる。

平気。大丈夫。
舞台に視線を戻すと、少年達は先ほどの余裕が嘘のように乱れていた。恐らく興奮を高める薬、もしくは麻薬を使っているに違いない。
喚くような声を上げ、卑猥な仕草で舌を突き出す。それでも女が逃げようとすると髪を掴んでぐいと引き戻す。嫌な予感がした。

危ない。

反射的に思った。何故かは分からない。勘のようなものだったのかもしれない。
後ろから犯されたまま少年は、絶頂の叫び声を獣のようにあげた。その我を忘れたようなものすごい声量と、質と、甲高さとは裏腹に手は素早く動き、その手には銀色に光るナイフが握られている。小さな物ではない。登山に使うような、刃のぎざぎざした。それが女の白い肩に突き刺さった。
更に高い絶叫が轟いた。

真っ赤な血が吹き出すと、それは別世界でもなんでもなくなってしまった。
あれは現実で、女は自由にならない体でもがく。少年達はセックスなど忘れたようにそれぞれナイフを持ち出し、代わる代わるその体に刃を突き立てる。獣じみた叫びが上がるたび、客席はシンと静まりかえった。
しかしおぞましさにではなく。

それらの興奮しきった顔を見たとき、中で何かが弾けた。膨らんだ股間を隠そうともせずだらりと座っている初老の紳士の姿に後押しされた。鼻孔をつく血の匂いにも。
「………、」
聞き慣れない響きの声がした。訛りが酷くて聞き取れなかったが、恐らくはどうかと聞きたかったのだろう。自慢かもしれない。どちらでもよい。どうでもいい。
笑顔を浮かべた。精一杯愛想をよくしたつもりで、実は相当引きつっていたに違いない。
歯をむき出しにしたその顔は、野生では威嚇となる。本能で察したのか、相手の顔も引きつっていた。
衝動のまま懐の銃を掴んだ。










血まみれのステージをモップでさらに塗り潰す。
そんなようにしか見えない作業をしているのは、先刻まで戸口に張り付いていた男だ。その横を少年の死体が豚のように引きずられていく。
屠殺場の光景だった。

利用されたのだと分かってから、怒りは静かに引いていった。舞台でなく、向かいでふんぞりかえっていた取引相手の眉間へ吸い込まれるようにして発射された弾の軌跡が網膜に焼き付いている。本当に集中している時、弾道が分かる、見える、辿れる。射撃場でぽつりと零されたその言葉が耳の中で繰り返される。

撃った瞬間、悲鳴と怒号が混じる中、背後に控えていた大量の黒服達は素早く動いて退路を塞いだ。落ち着き払った態度で立ち上がったあの鋭い目つきの男は微笑し、一礼し、静かに頭の顔へ白いハンカチを被せた。それから舞台で凍り付いたように動かない2人の少年を撃ち殺した。
女は既に事切れていた。





来た時とは逆に、怯えた様子で車に押し込まれていく客の背を眺めていた。
座ったままちびちびと酒を舐めていると、体温が戻ってくる。
殺しをした後はいつもこうだ。
自分の手を汚すことは滅多に無いが、いざその場になれば躊躇わないだけの決断と行動力を叩き込まれた。ぐだぐだ考える前に自分がすべき事をしろと、冷たい声が脳髄に染み渡りひたひたと浸けている。
しかし今回のことは違う。
「悲しいことです。兄は気が狂っていました」
いつの間にか側に来ていた男が、穏やかな声で言った。
「あの大量のお兄さんの同類は?帰して良かったんですか」
「彼等は何をすることも出来ず、徐々に力を失っていくでしょう。どうせ落ち目の連中ばかりですから」
静かな目をしていながらも、奥では野心の炎が燃えている。
不意に全てが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「お兄さんとは、似ていませんね」
「それが私の誇りです。これからも」

真正面から差し込むような真摯な眼差しが言っていた。その瞬間だけ彼は仮面を取り、あの醜悪な男の肉親である事を疎んじ、憎んでいた。俺は感謝さえされている。
肉親殺しは最大の罪だったと、出来の悪い脳みそが今頃思い出した。罪人は死後地獄に堕ちる、永遠の責め苦が待っている。
だから。
取引は此方に有利な条件で決着をつけるだろう。

手つきだけは恭しく、死体は運び出されていった。
盛大な葬式が執り行われる筈。
「明日の朝、また、続きを」
「ええ」





戻ると、ディーノは珍しく煙草を吸っていた。控えた部下がライターの炎が消えないよう手で覆っている。
「よお」
微笑。そして、煙が湿った生臭い風にたなびく。
何をしていても、まったく絵になる男だ。
「帰るか。部屋で飲み直そう」
「晩酌程度なら。朝一で仕事だし、リボーンに連絡して叱られてこなくちゃね」
「もっとゆっくりしようぜ。お前達はせっかちでいけねえ」
快活な笑い声が暗い路地に落ちる。歩み寄ると、彼は羽織っていた長いコートを脱いで肩へかけてくれた。
「返り血がついてる。そのスーツは始末しろ」
「高かったんだけどなぁ」
不意に手に力がこもる。腕を掴まれ、痛いほどだ。悲鳴を押し殺して見上げると、彼はもう一度、あの問いをした。

「大丈夫か?」
「何も問題はないよ」


2005.10.2 up


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