魔物の村

 

 どくどくと心臓の動く音がしている。
 一瞬息を詰め、その後静かに逃がす。
 目を閉じていると特に、だ。身体の内側まで感覚が鋭くなり、隙間無く、きわまで、みっちり押し込まれた熱に、黙っていても呼吸が乱れてくる。
 腕がゆったりと弛緩し、掴まれていた腰から汗で指が滑った。先程まで力強い動きで揺さぶっていたその皮膚で、鮮やかな線が踊っているようだった。
 どうしてこんなことが出来るのだろう。
 幾分怖れにも似た感情を抱きつつ、表面を撫でた。
 応えはすぐに返ってくる。熱を持った唇がこめかみに触れ、荒い息が耳を擽って、首筋を辿る。
「どうした?」
 言葉は出てこない。
 言いたい言葉がみつからない。未だ整っていない息のせいでもある。
 結局はぐらかされるだけだと分かっているし、相手の見ているものと自分の狭い視界の違いを思い知らされるのも辛かった。
 痛くないのかと何度も聞いた。
 肌に針を刺し、違う色を入れていくというのは。
 それがどんなものか想像もつかないが、相当な痛みを伴うのだと聞いている。自分にはとても耐えられないし、考えたくもなかった。
 何の為に。
 どうして。
 何度聞いても答えは同じだ。
 苦笑い。
 嫌なのかと問う、悪戯っぽい、でも僅かに不安そうな眼差し。
 だからこちらも答えるかわりに笑ってみせる。
「悪い。キツかったかもな」
 汗が目に滲んで、拭おうとして止められた。
 あたたかく濡れた感触が目尻に触れ、伝い、頬まで舐める。くすぐったくて笑い、身を捩った拍子に中が擦れて息が漏れた。

 こんな場所で気持ち良く感じるなんて、未だに信じられない気がする。
 こういう関係になって初めて、それがどういう意味か思い知らされた。
 好きだ、愛してると繰り返し言われるし、多分本当なのだろうと思う。今は。
 最初は違った。
 抑え込まれ、突き刺され、自由が利かない腕を振り回してぼろぼろと涙を流し、その間ずっと違うと、口には出さずとも心で叫んでいた。憎くさえあった。
 自分が女だったら、また彼が女だったら考えなくて良かった事だ。
 だから迷いがないと言えば嘘になる。
 好きだけど、大事だけど、それが最上かと言えば違う気がする。








 無惨に裂かれた喉を逸らし、僧は事切れていた。
 その身体に最早命の息吹はなく、瞳は濁り、肌には行く時には無かった皺が刻まれ――
 恐ろしさに震え、ツナはその苦悶の表情から目を逸らした。

 この男が失敗したという事、つまりそれは。
 自分の身をもって贖わねばならぬという事だ。

 父母のいないツナがこの小さな村でそこそこ丁重な扱いを受け、生かされていたのは、まさにこの時の為なのだった。
 恵みの無い山村にとって、森は命を繋ぐ大事なものだ。
 深い闇を纏い、奥に魔物が住まう不吉な場所でさえ、なくてはならないものだった。
 魔物は百年に一度、生け贄を求め村の入り口に錫の大皿を投げていく。
 それは空腹の印であり、大昔に交わした契約の末でもあった。
 この不毛の地で命を紡いでいくために、飢えに耐えかねた祖先達は忌まわしい術に手を染めたと伝えられている。
 父母が未だ健在の頃、呼び出した魔物に息子や娘を引き裂かれてなお村の繁栄を願う、そんな時代があったのだと昔語りに聞いた。
 おとぎ話とばかりと思っていた子供の自分。
 しかし、それから幾らも経たないうち魔物は目覚め、腹を満たす為に村へと降りてきたのだった。
 偶然場に居合わせた者数人がその牙の犠牲となった。
 そこにはツナの両親も含まれていた。
 家族を失い、泣きじゃくる幼子を村の人間は連れて帰り、甘い飲み物や菓子を与えたが、慰めの言葉はかけなかった。これが摂理だと言い聞かせるだけだった。
 成長するにつれ、ツナは自身の役割を理解していった。
 自分は村の若者のように硬い土を耕すことも、重い水桶を負う事もない。
 代わり目覚めた魔物の空腹を慰め、その喉を潤す為の血を蓄えておかねばならない。

 怖くなかったと言えば嘘になる。
 分かったようなフリをして、表情無く頷きながら実は怯えていた。
 だからかもしれない。ふんだんに食事を与えられていてもツナは痩せていた。背も小さく、あまり力のない様子に心配されたくらいだ。
 だがツナはその心配を撥ね付けた。
 どうせ魔物の腹に収められるが運命なら、美味かろうが不味かろうが関係ない。
 そんな事を思い日々をただ過ごしていたのだ。
 与えられた家に一人住み、運ばれる食事を口にしながら、考えていたのは自由だった。
 此処から出ていけば、自分は自由になる。
 村の者は追ってくるかもしれない。けど逃げ切れば、異国へ行く船にのってしまうとか――頼りになる旅の連れ合いを見つけたら――そんなくだらない事を考えて。



 愚にも付かない夢だ。
 そんな事は有り得ない。この村は街道から遠く離れているし、わざわざ目的がなければこんな奥までは来ない。旅人など、この何十年か訪れた事はない。
 だがある日、知らぬ男が村に来た。
 僧服こそ着ているものの、人相の悪い欲深そうな男だ。ツナは一目で嫌な印象を抱いたが、村の者は大層な歓待振りだった。
 一晩経ってから噂を聞いた。その男はわざわざ村長自ら筆をとり、遠くの町から呼び寄せたという話だった。
 お前を案じているのだと説かれたが、長く贄としての心構えを叩き込まれたツナとしては、その男は単なる保険と感じていた。
 あの強力な魔物が、両親や村の人間の命を一瞬で奪ったような存在が、あんな男にやられるものか。
 月日の経過と共に、ツナの魔物に対する感情や思考は複雑に歪んだものとなっていた。
 無論、父母の命を奪い自分をこんな立場に追い込んだ存在だから、憎い。
 同時に人の血肉でなければ満足しない残虐性に怖れを感じていたし、近い将来そうなるだろう無惨な自分の姿を想像し、食われる己ではなく――食らう魔物の気持ちに重ねて考える事もあった。
 そのような不浄は必ず祓い、村を正してみせると意気込む僧の横顔を影から窺い、その醜悪な笑いに背筋を振るわせながら。
 考えた。
 万が一あの男が魔物を退治する事が出来たら――
 期待なのか不安なのか、腹に沈む感情は重く鬱々としていた。


2011.8.25 up


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