Mascherato
なんて平和そうな間抜け面だ。
見た瞬間、脱力した。意識が覚醒し状況を確認、知らぬ場所であると分かった恐怖その後の事態としては、あまりに緊迫感が無さ過ぎた。
おかしい、どこで間違ったのだろう、自分は確か―――
「ぐっ…」
込み上げてくる嘔吐感と寒気。思ったより解毒に時間がかかっている。通常なら6時間程度で排出してしまえるのに、8時間経った今も体にダメージが残っている。
耐えきれず、かけられている布団を剥いだ。
カチコチと時計の針の進む音しかしない、静かな部屋の中で声を殺す。ちらりと下を見ると、頭がごろんと寝返りをうった。息を殺す。
今起きて、騒がれるのは困る。
床にごろりとのびているそれを、最初は死体かと思った。
しかしよく見るとその肩は小さく上下して、口はむにむにと何やら呟いていた。スウスウ寝息も安らかな、子供のように邪気のない寝顔でおまけに、見覚えが全くない。
何かを探された形跡もなく、コートも身につけた仕事道具もまったくそのままだった。ベッドに横たえられ自分は今の今まで回復のための眠りを貪っていた。知らぬ人の家で!
有り得ない事態だった。
人の寝顔、など。目を閉じて、意識のない状態ならそれは死んでいると言うのだ。青く変色したグロテスクな死に顔なら腐るほど見た、穏やかで優しいそれなどない。皆恐怖に顔を歪め、恐れを刻みつけて絶命の瞬間を迎えたからだ。
気分の悪さはますます酷い。
ずるりと身を寝台から下ろし、よろめく足で部屋を横切る。典型的な、安い作りのアパート。積まれた本。隅にトランク。階下に人の気配。
(学生か)
洗面台に手をつくと、排水溝に思いっきり顔を近づける。腹に手をあててぐっと押す。
ごぶりと気管を逆流して出てきた黒い血を最後の一滴まで吐き出すと、大分マシになった。
口腔内を数度ゆすいで、唇の水を切る。小刻みに震える、血色の悪い顔が其処にはある。
5階の高さから飛び降りた際強風が髪を乱したそのままで、指を突っ込んで梳く。しかしいうことを聞かずはねてしまい、結局元のぐじゃぐじゃに戻した。
眼鏡は度が入っていない。これには別の役目がある。
油膜の浮いたプラスチックを指で押し上げ、少し位置を調整。我ながら相当に目立つ自覚のある色違いの双眸が消え、わざと造作を崩す意図でデザインしたフレームにより細面の顔から個性が消えた。冷えた外の匂いを残したありがちなコートにスーツ、どこから見ても主張はない。
雑踏に紛れてしまえるこの変装を見破った者は今のところ一人もない。
さあ、どう誤魔化そう。
そっとドアノブを捻ると、華奢な背中がびくりと震えた。
臆病な仕草に合う、大人しい容貌の青年だった。ちょっとの間逡巡し、スウと息を吸い込んで控えめな言葉を紡ぐ。
「おはよう、ございます」
懐かしい言葉だ。
「気分どうですか?顔青いですよ。まだ寝てた方がいいんじゃないのかなあ…」
煮え切らない語尾だった。
つられて返事も、考え用意していたものとはかなり違ってしまった。
「はあ…、あ、あの」
「たくさん飲んだんですか?」
「え―――ええ、まあ」
俺これから朝食ですけど、もの食えますか食えませんよね―――次々飛び出す言葉に面食らう。
その様子を見て、青年は弱々しく笑う。
「………」
「………」
どちらともなく、黙り込んでしまった。
これでは、おかしい。
本来、口の達者な方だ。思っていることいないこと、ぺらぺらと良く喋り、人を言いくるめるのも得意である。
それがこの青年の控えめな笑みと態度を前にするとどうも調子が悪い。
「すみません」
長く考えた末、出たのはその一言だった。
青年は駅前という言葉を何度か使った。言われてみれば、その景色は目に浮かぶし冷たい風も覚えている、が、いかんせん記憶はあやふやだった。
遠慮がちな言葉の端々に都合の良い誤解が伺える。
酔っぱらって倒れたと思われているなら、誤魔化す必要もない。
「学生さんですか?」
「一応…」
インスタントの粉末に更に砂糖、ミルクをたっぷりと入れたコーヒーを持って彼は床を見つめている。
此方は砂糖とミルクを断って、苦いだけ味の薄いそれをちびちびと口に入れた。
コーヒーは悪くないのだ。ベストはビールだが、アルコールを一気のみしたい気分ではないし第一無礼だろう。知らない人の家で要求する物ではない。
「あの………そちらは?」
「僕は」
なんと言おうか。
少しの間を、彼はびくびくと受け取った。
「いや、すいません!別に詮索とかそういうんじゃなくて、いいいいですから!」
お仕事大変ですね、とだけ付け足して控えめに笑う。抱えた膝にカップを乗せて所在なさ気に視線を移す。
椅子がないのでベッドに二人並んで腰を下ろしていた。彼は背が低く、小柄で、背を丸めてますます小さくなる。
寝間着の襟から露わになる細首とその白さは"留学生"という立場にして、遊ぶような積極性はないことを示していた。此方では、皆躍起になって肌をやく。
「六道と言います」
「は?………ああ!俺は、沢田、です」
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