波は驚くほど穏やかだ。日差しはきついが、耐えられぬ程ではない。
ビーチには数人出ていた。地元の猟師がのんびりと、だが器用に網を繕っている。その視線は遠く水平線に固定され、指は迷い無くすばやく動き、見ているこちらには分からない綻びを直していた。

海辺のこの町にふらりと立ち寄ったきり、もう何週間も動かないでいた。
だからと言って満足とは違っていた。気に入ったのでもなかった。
狭いこの集落で注目を集めるも、降り注ぐ南国の日差しにもうんざりしている。強いて言えば魚が美味い。そして夜、ホテルの安っぽいバーで飲むマティーニ。ベルモット、ジン。そしてオリーヴの、独特の風味。
決して味が良いのではない、でもどこか安心するその味とアルコールに縋り眠りにつく一瞬前が一番心穏やかでいられた。
この穏やかで凪いだ気持ちならば、そのまま永久に眠ってしまっても良かった。どこからが現実で、どこからが夢か。ここでは時間が区別の付かないぐらい曖昧な流れ方をする。

日課として、一日最低一回は電話をかける。
ホテルではなく、近くの公衆電話からだ。砂をかんで古びた傷だらけの金属のボックスは、ざらざらした声を届けているだろう。
やる気のなさがいい具合に伝わっている。今しばらく、動きは無い。

「ここにいたのかい…」
のんびりした発音がわざとらしい。この男はもっと内陸の出身で、けちな泥棒上がりだった。もっとも本人は自らの正体について、この目の前の凡庸な東洋人が自分よりも良く知っているなどとは思いも寄らないに違いない。
だがそれは事実であり、男の経歴について、ハイスクールで付き合っていた女の人数とそれぞれの名前まで、調べはついていた。
この世界にプライバシーなどという言葉は無い。
いや、そもそも、それ自体が大層馬鹿馬鹿しい言葉だ。
「随分探したんだよ。部屋にもいないってんで、慌てたぜ」
「俺が此処にいるってこと、見当がついても良さそうじゃないか…」
「今日は日差しが強いだろ。あんたじゃ耐えられないと思ったのさ」
はじめてあった時のことを思い出す。夜の酒場で、バーではなく―――いかがわしい盛り場の隅で声をかけられた時のことを。人の手を掴みじっと見て、きっとこの蛍光の照明下じゃ、黄色も白も同じだと思っていたのだろう。
半笑いで女をつけようとする慣れたやり口に、同郷の男たちが辿ってきた堕落を再度実感した。海外に出れば女ばかり買い漁る、悪い評判を此処でも広めているに違いない。
「ものは、いい。値が少々はる。けどいい」
「幾ら出せって?」
「最初は無茶な値段に思えるかもしれないが、一度試したら納得するよ」
「そうかい」
苛立ちを隠して微笑む。質問を無視するのは無礼だと、誰か彼に教えてやらなかったのだろうか?
やり手と信じている自分自身が、いつか気の短い誰かに一発食らう、そんな想像をしたことは。
おそらく無いだろう。
病的なポジティヴ。金だけにシビア。
その感性は悪の層の薄っぺらな部分をようよう泳ぎきる。気づくほど賢さはない。自分では知らぬままに破滅へと迷い込んでいくのだ。罠にはまる魚のように。
「金は幾らあるんだ?」
「幾らでも」
男は束の間こちらを凝視した。まっすぐ見返してやると、嘲りと媚の入り混じった笑みを浮かべる。
ねばっこい。
虫唾が走る。
「今夜届けさせる。必ず」
「期待してる」
丸めた札を握らせ、立ち上がった。もう用事は無かった。
元々暇つぶしなのだ。

ホテルに戻ると、電話が一本入っていた。
余程緊急でなければかけてくるなと言い渡してある。フロントが怠惰なしぐさで受話器を差し出し、用事は済んだとばかり奥へ引っ込んだ。
店番はまだ若いここの一人娘だった。
「私だ」
『随分気取った言い方じゃねえか。休暇を楽しんでるな?』
「ああ…そう、なにもやることがないってのはすばらしいね」
『のんきなもんだ。こっちはそろそろ騒ぎになってきてるってのに』
「その内あきらめるよ。慣れる。終いに俺なんか要らなくなるさ」
受話器の向こうから忌々しげに鼻を鳴らす音がする。
不機嫌を隠しもせず、見せ付けて首根っこを掴もうとするその手が、見えないそれが背後に立つような気配がした。
もちろん錯覚なのだが。
『引退って歳でもねえだろう』
「元々俺は望んでなんかいないんだよ」
『ネガティヴ。そんな"もしも"は必要ない。悪い傾向だ。南国暮らしでなまったか?鍛えなおしてやろうか』
「此処にいたらおまえだってそうなる。待ってるよ、おいで」
『冗談じゃねえ』
確かに、穏やかな暮らしは彼には似合わない。
誘いながらもその光景はたまらなく滑稽で、有り得ないことが分かる。不意に笑いがこみ上げてきた。
「そうだ冗談だ。絶対に来るな。駄目になるぞ………今の俺みたいにね」

そうだろうか?
喉に手を当てると、日差しのせいだけでなく体が熱い。

『おまえ、気付いてるか?』
「ああ」
『抑えきれてねえ。部屋に戻って顔を洗え。それから女でも』

熱い。

「分かる?」
『声がな。何年テメーと付き合ってると思ってんだ』
高揚した気分のまま受話器に唇を当て、熱烈なキスの音を立てた。がしゃんと乱暴に受話器を置く音が耳をつんざく。
「あいつ、怒りっぽいな。それとも照れてるのか?」
独り言は宙に分散して消え、受話器を置くと完全に静まった。
フロントはがらんとしている。断る手間も惜しみ黙って部屋に帰った。

仮眠を取り、夕方レストランに下りた。
豪勢なものを食べる気は無く、軽いつまみ程度のものを2、3皿頼む。ビールを1本だけ注文する。
よく冷えている。水滴が瓶から垂れ、テーブルクロスを濡らしたがどうせ染みだらけだ。
ここではビールをキンキンに冷やす習慣は無く、此処に来てはじめての夜にそれを頼んだ。チップをはずんだせいでそれ以来一度もぬるいものは出てきていない。
ちびちびやりながら瓶を半分ほどあけると、夜の風が滑り込んできた。湿ったそれに潮の香が混じり、慣れた今では平気だがあまりいいものではない。
港へ水揚げされた魚の血が、岸壁のアスファルトを朝は湿らせ、夜は風がその匂いを運んでいるのだ。

唐突に立ち上がる。
皿に金を置き、寄ってこようとする雇われ者のボーイを愛想笑いで押しとどめ、ゆっくりとレストランを出る。
廊下は早足で駆け、フロント前は避けた。裏の階段を上がり、夕方取り入れたまま放置されている洗濯物のかごを飛び越えて部屋へ戻る。
扉の前で銃を抜き、構える。飛び込むなんて無茶はせず、静かに押し開けた。
鍵は元から開いているのだ。





暗闇に入るとすぐ異変に気付いた。
この生臭さは魚ではなく、動物の血。おそらく―――
用心して入った寝室の、壁に手を滑らせ明かりをつける。広さだけはあるベッドの中央に、サンダルをつっかけた足があった。
足はくびれた腰に続き、形のいい尻に続く。そこから上は血まみれだ。胸に大穴があいていた。
手にもっている紙包みを拾い、トイレに投げ捨てるべく洗面所へ突っ込む。しかし乾いた洗面台を見ると反射的にそこまで顔をもってって、口を開く。
大してなにもしない内に夕食とビールが喉を逆流した。出されたそれは色鮮やかなパプリカが混じっていて、更に吐き気を助長する。
ひとしきり吐いた顔を洗い口をすすぎ、後のろのろと床に座り込んだ。冷たい床を手で辿りながら、片方ではタオルを掴む。
濡れた顔を拭うと寝室を見る。開いた扉の隙間から女の足と、散らばった髪が見える。
此処に来て数度見かけた。
町ではそこそこ稼ぎのいい娼婦だ。理由は手の中にある。
女は薬を運び、ついでに、客が同意すれば―――一夜の愉しみも売る、強かな商売人だったのだ。
腐敗は町にがっちりと食い込んでいる。…どうしようもない。

バスルームからは水音がしていた。
自分はその音をたてる人物に心当たりがあったし、彼を待ってもいた。
しかしこれは望んだ形ではなく、更に悪いことも示していた。用心深く銃を構え、いつでも撃てる体勢を整えながら一歩踏み出す。
しかしそこは蹴り開ける前に開いた。
中から悠然と出てきた男は髪から雫を滴らせ、癪に障る堂々さで腕を伸ばした。反射的によけるとそれは傍らにたたまれたバスタオルを取り、しなやかで逞しい体の水気を拭う。
銃は役に立たない。知っている、それは相手のなんの感慨も呼び覚まさなかった。彼は笑みを浮かべてはいたがそれだけで、怒っていた。
「…想像は出来る。実際何度もした。けれど納得はしません」
「あんたは誤解しているよ」
「多分そうなんでしょう。でも本当はどっちだっていい」
我ながら言い訳がましい、情けない声だった。
裸なのはこの男で、自分は上から下まできっちり衣服をまとっている。しかしこの男にじっと見つめられると、自分が丸裸にされているように感じた。心のそこまで見透かすようなその視線は強すぎ、会った時からの苦手意識をチクチクとつつく。
「僕らしくない。取り乱すなんてことは、まったく。返り血が」
「あれをどうするつもりですか?」
「ついてしまって。台無しですよ、なにもかも」
苛ついているにもかかわらず、男の言葉としぐさはどこまでも優美だった。その容姿は年を重ねるごとに洗練され、いよいよもって上品だ。
卑小でこそこそしている自分とはえらい違いだ。
「どう…するんだ」
彼に会う度にコンプレックスを刺激され、情けない気持ちになる。それに埋もれているようなもので、どっちを向いても息苦しいありさまなのに。時折、更に。
「寄越した人間に始末させましょ。まるで気分が悪い」





深夜の国道をコンバーチブルが走る。傷一つ無いメタリックブルーの車体が時折ネオンの光を反射して、沿道の人間の視線を釘付けにする。
ほぼ強制的に助手席に座らされた。諦めもつく。運転席ではうって変わって上機嫌にハンドルをコツコツと叩く指。
横顔に表情はないが、ラジオのかしましい騒音に合わせて微かに調子を取っていた。
後部座席に目をやると、女が髪を振り乱して座っている。座らされている。
シーツの覆いすら与えられず、死者の尊厳もへったくれもない。
この男にそんなものはない。
「何処へ行くんです?」
「あなたが知っていますよ。さあ指示を」
「………其処の角を、右に。店が。なにやってんだかなもう………ああ、明るいところは止めてください」
「心配性は変わっていませんね」
ステアリングを滑った手が、さりげなさを装って内股に這った。
我が物顔で振る舞われる事ほど不快な事はなく、それは自分と相手が同じ性であるからで、睨み付ける。
自分のそれはあまりにも迫力に欠け、どうしようもなかった。仕方なく足をずらし、無礼な手を払う事にする。
「あんたの趣味は最悪だ」
「そうでしょうか。自分では分かりません」
「誰が見たってそうだろ」

ギリギリの肉体的接触。
ふざけた言葉遊び。
時に殺し合う。

この関係の異常さは、自分がよく知っている。
しかしこの男は使えるのだ。何も知らせず、何も語らず、ただそこにあるだけでたちどころに自分の頭の中身を読みとって動く魔性の存在。それは華やかな影だ。
魅了され食い殺されるのは観客なのだ。
「僕は感心している。あなたにしては随分とケチな仕事だと思ってね…」
「仕事の大きさは関係ない。知ってるだろう?せめて俺は好きなようにすると」
「妙な道徳心を持っていらっしゃる。その指一つで戦争を起こす癖に」
「必要がなければそんなことはしない。さあ、ここです。車を停めて」
今は動かなければならなかった。
無言で指さし、辺りを見回す。とりあえず店の周りに人影は無く、建物から漏れ聞こえる派手なビート音以外は、まったくの静寂だった。
「不用心な作り」
クスリと笑って口元を抑える上品な仕草。
男は頷き、死体の頭を持った。2人で運び出し、集まった車の中から適当なものを選んでぶち込む。
ガソリンを抜き、辺りに散らした。改造したエンジンのおかげでよく燃えそうだ。
「仕事は嫌いじゃないんだ。体を動かしていれば気もまぎれるから」
銃を抜き、手順を追って確かめる。ネオン下の薄暗がりで見る鋼鉄はつやつやと光り、重さも丁度良い。強化樹脂やグラスファイバーの玩具のような感触は未だ慣れる事ができず、結局こうして古い物ばかり選んでしまう。
「問題は機会がそうないって事で。俺の部下は優秀過ぎるんです」
「羨ましい話ですね」
ドアが開く音がした。
数人が大声で話しながら出てくる。その背後に彼は音もなく忍び寄る―――少しでも駐車場側に来れば、物も言わずに刃をふるうつもりだ。
黙って息をひそめていると、じっとりと汗が沸いた。
地元の若者達だろう。まだ若い。酒と、薬をたっぷりやっている。足取りが怪しい。
やがてその一人が道路に向かって歩き出した。
幸いなことに徒歩組だったようだ。彼等は離れた場所に停めたメタリックブルーのコンバーチブルを指さし、何事かを争っている。
別に車を持っていかれてもよかったが、此方を見られるのはまずかった。じりじりと店の影に移動すると、後ろから腕が伸びて闇に引きずり込まれる。
「嬉しいでしょう」
「なんだって?」
「あなたが考えてること分かりますよ。どうしてだろうな、こうして触れていると手で掴めそうなほどだ。心臓も」
「…っ!」
左胸に突き立てられた爪は、冗談ではなく力を込めて皮膚を抉っている。
その一方で、いたわるような優しさで触れる指と、別の熱を込めた唇が首から頬に移っていく。抱え込まれるような体勢で身動きが出来ず、銃も抜けない。
「しーっ」
囁きは耳朶を噛む口の動きで途切れた。生臭い夜気が店の周りを囲い、閉じこめている。行かなければ。
「あの子たち、行ってしまったようですよ」
力を抜き抵抗を止め。それだけを呟くと、不意にくつくつと笑う音がした。
「それでも結局最後の所で読めないんです………あなた、たいした人だ」

2005.10.25 up


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