ネクロポリス

 

居なくなっている。消え失せた気配に目が覚める。
腕の中は空だったが、まだ僅かに残る香が昨夜の事は夢ではないと告げていた。コロネロは身を起こし、しなやかな動きでテントから這い出す。

月が出ていた。弓のように細い月。

僅かな光量でも、闇に慣れた彼の目には十分だった。
思わず息を飲む光景が広がっていた。
テントのふちぎりぎりまで黒い水が迫っている―――
「馬鹿な」
広大な沼を、コロネロは呆然と見渡した。宿営地を選ぶ時、雨天時の浸水に備え少し高台にした筈だった。それに一晩で出来るような規模のものではない。

身の危険を感じてナイフを探った。コンバットナイフを使用した接近戦もまた彼の得意であり、大勢の敵をこれで屠ってきたのだ。
しかし彼は刃を振るう事はせず、黙って水に進んで行った。胸まで水が浸った所で一気に潜る。

水面下数メートルの位置に男が居た。
眠りにつく前、着せた白いシャツが水に揉まれゆらゆらと揺れている。口から出ているのは気泡ではなく、あの蜜がどろりとたゆたっているのだ。
目は開いている。
虚ろなまま、水のずっと下を見つめていた。

駄目だ、あのままでは。
本能的にそう思った。強い力で水を蹴り、手でかいて先へ進む。深く潜るごと体が冷えていくようだった。水は生ぬるいのに。
駄目だと言っている。
今はもう目を閉じて沈んでいく体を、腕を掴んで渾身の力で引き寄せる。首に腕を回して上へ上へ上昇する。足でかく水が重く、まとわりつくような粘度を持っている。何故か無性に腹が立った。

水の底に向き直り、銀に光る刃を抜く。水の中でもその動きは劣る事無く、鋭く、かつ舞のような優雅さで手首は捻り、光の軌跡を生んだ。おまけに指もおったててやった。宣戦布告だった。
水面に顔を出すと、月はもう細くなく丸く満ちていた。





「っ……!」
跳ね起きた。拍子に、何かが腕の中から転げ落ちそうになり、慌てて抱え直す。
男はまだ眠っていた。疲労と何か、別のものに眠らされている。意識の無い顔は青白く、病人めいている。その全身はぐっしょりと濡れていた。
汗ではない。冷たささえ感じ、身震いする。自分もまた濡れている事に気付き、コロネロは頭を振って雫を払う。冷たい水が滴るほどに。

状況の異様さに、彼のリアリズムは一瞬だけ理解を拒否した。だがすぐに飲み込む。
ナイフを抜いて尖った先を指の腹で撫でる。チクリと小さな痛みが教えてくれる―――これは紛れもない現実だ。腕に抱えた重さも、冷たい水に濡れた全身も。全てが。


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