熱射
カチ、カチ、カチ、カチ、と神経質な秒針の音が部屋に響いている。
音は毎秒規則正しく聞こえるが、実際は二十秒程遅れていた。
そもそも、何故こんな古い型の時計がかけられているのか分からない。インテリアにしては殺風景だし、合ってないのなら時間を知らせる意味はない。
何処かのんびりした田舎のバスの待合室にでも相応しい一品だ。
(寝不足)
ジンジンと、痛みすら訴える眼球を瞼の上から揉む。最後にベッドで眠ったのは何時の事だったか。
静まりかえった部屋で、小さな物音がした。
「――気を付けろ」
「申し訳ありませ」
「違う。劇薬」
研究員が今手元から落としたのは、一般で使われている薬物と比べものにならない程危険だ。
他の国なら研究室の奥深くに仕舞われ、持ち出す事も禁じられている代物。それが簡易マスクと手袋だけで扱えるのは特権である。
勿論、危険と隣り合わせの。
助手として与えられた人員は、頭の方はともかく動きがまだ手慣れてない。顔つきも幼い。
優秀な――学生ばかり揃えやがってと、男は内心でため息を吐いた。
彼がこの国と交わした契約は、期限無し報酬固定、研究費無制限のかなり特殊な物だった。
まだまだ発展途上のこの国では新政権と旧政権の争いが絶えず、その上厄介な民族紛争まで抱え込んでいる。国土の四分の三は砂漠。
今年は特に世界中で暴れ回る異常気象の煽りを受け、乾期でもないのに川が干上がってしまった。
人々を苛む飢え。乾き。
男は慈悲の心を持つ正義漢では到底なかった。
身の目的の為に利益を追い、その実ただの我が侭で国の研究機関を捨てた。
しかし彼の持つ能力故に、皆表だっての批判は控える。あくまで秘密裏に接触してくる。
この世界で彼はボーダーレスだった。民主主義も、社会主義も、独裁政権の要請すら彼は時々受けた。それが自分のやりたい事と重なっていれば。
企業と契約した事もある。
皆やり方は同じだった。
世の中の上辺だけをすくいとり、美しく飾り立てて彼に差し出す。自分たちはこれだけの特権を与える事が出来る、という訳だ。
そんなものには興味がなかった。
必要と思えば、いつでも手に入れる事が出来る。
彼は天才にありがちな孤独や世間に対するぎこちなさとは無縁だった。容姿もまた然り。
「謝る暇があったら洗浄しろ。利き手が使い物にならなくなったら困るだろう」
「は、はい」
白衣の裾を縛り、流水に浸す。
まだ幼い容貌は緊張に引き攣っている。この研究所の外で同じ事をしたら、見る者は気が狂っていると思うだろう。貴重な水を、こんな沢山。
「先生、おれたち、上に行こうと思うんですが――」
「食事か?」
「ええ。それと、家族に会いに」
来て数日感じていた、独特の疎外感は失せた。
何処へ行っても同じ、交流は言語に寄って成り立つ。今ではチームは一つになり、目的に向かって邁進している。国を救う。方法はどうであれ。
彼はその裏で、自分に都合の良い利益を啜るだけだ。
研究に必要な施設。静かな環境。優秀な助手に、豊富な資金。
「オレも出るか…」
煩い野次馬の視線が無いだけで、此処は彼にとってずっとマシだった。
研究所と、それに必要な電力を賄う自立型発電所、研究員の住居。
それらは全て目立たぬよう古い城塞跡に建てられた。
これが見事な傑作で、途上国にありがちな見栄や気張りが全く感じられない、完璧なカモフラージュが施されている。
全ての外壁は日干し煉瓦が積まれ、近代的な建物は影も形もない。
発電所だけはどうにもならないが、近くに大きな偽装工場が建てられているので言い訳には十分だろう。
元々は移動民族の野営場所となっていたのだが、紛争が激しくなるにつれて彼等はこの一帯から姿を消し、もう二十年も戻っていないという事だった。
その代わり研究員の家族や縁者が近くに小さな集落を作っていた。
こういうのんびりした所がいい。
しかしそう時間を置かず此処の存在は知れるだろう。今は厳しくチェックされている出入りも、規制が緩くなり――『生活』が其処に入り込んでいる。そうすれば幾らでも自由にやれるし、抜け出せる。
大事になる前に、猫のようにするりと抜け出すのがいつもの彼のやり方だった。
目的さえ遂げてしまえば用は無い。
今まで幾つもの契約を結んできたが、一番腹立たしいのは研究者である彼をまるで物のように扱う政府や軍部だ。
女や家をあてがうのはまだ良い方で、中には逃亡防止に足を潰そうとした奴等もいた。慣れた様子だった。きっといつもやっているのだろう。
それでも反撃は予想していなかったらしく、向こうの目的をそのまま返してやると執行人は口汚く罵りながら失神した。彼はうんざりしながら部屋を出て、二度と帰らなかった。
エレベーターを出ると、気温が一気に上がる。
下は常に二十度前後の快適な温度に保たれているが、地表は昼は灼熱地獄、夜は氷点下になる事もある。砂漠は熱を貯めておけないからだ。
複雑な手順を越え、帰宅する研究員達に混じり"自宅"に戻る。
此処でも、例によって広く豪華な住居が与えられていた。
と言っても彼等の基準での話だ。
シャワーが使えるのは限られた時間のみ。
冷房は無く、家具も殆ど無い。
中庭に棗椰子の木が植えられている他は、潤いのない乾いた住居。
以前来た時は世話役の女性が一人居たが、長く留守にしたせいで帰ってしまったらしい。
「おい」
早くも汗を掻き始めていた。
近くに居た人間に誰か一人寄越してくれと頼むと、頷き、意味ありげな笑いを向けてくる。
そんな用事は今のところ必要ない。
「女はいらん。男でいい。力のある奴だ」
木は、水こそ与えられていたものの、伸び放題の葉が家の中にまで侵入していた。
手入れをするのに女手では困る。
「旦那、駄目だよ。役人に言われてるんだ」
「なんだと?」
「男は駄目だ。女も、町に出たことのあるのはだめ」
くだらない逃亡防止措置に、暑さも相まって、力が抜ける。
たらたらと汗だけが流れ落ちていく。
「…とにかく、飲み水と、誰でもいい。オレに脅しつけられたとでも言っておけ」
2007.4.30 up
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