温泉休暇

 

 彼がこんな中途半端な宿場にたった一人で居る、という事実が脳に浸透するまで大分かかった。
 生来の怠け者であるこの男の、労働に対する厭いっぷりはいっそ見事で、なるべく自分が働かずにすむようにとそればかり考えている。人の使い方が上手くなる訳だ。
 でも自分は、己だけは進んで必要とされに行く奴隷のようにはなるまい。
 此方を見た瞬間、嫌そうに歪んだ顔を見てほっとする。心のどこかが釈然としないものの、喜ばれるより嫌がられる方がマシである。誰も彼も尻尾を振ってまとわりつくと思われても困る。特に僕は他の誰とも違うと、そう認識するべきだ。
 とは言え、もう絶対俺は動かないと宣言した彼が(流石の僕も彼の怠けに関しては一級と認めざるを得ない。まあ、皮肉ですけど)黒絣の浴衣一枚でしどけなく長椅子に横たわっている以上、手を貸さない訳にはいくまい。
「大浴場、行く?」
「温泉に入りに来たんでしょう?」
「歩くの面倒だなぁ」
「どうしろというのですか」
「あ、骸、あれだ、こう、ビールケースか何かがらがら運ぶやつ」
「…それを僕に押せと? 君を乗せて?」
「楽なんじゃない。やったことないけど」
 こういう所が理解に苦しむ。彼は本気でそんな格好を僕がすると思ってでもいるのだろうか? 台車に人を乗せて、エレベーターまで行って、誰か人が入ってきたら何事かと思うだろう。恥である。
 そんな事の為に幻術を使うのも馬鹿らしい。
 それぐらいなら抱き上げて行った方がまだマシだ。見た目の問題的にも。そう思って言うと、彼は派手に顔を顰めた。
「やだよみっともない」
 ……よく、分からない。基準が。
 如何にも馬鹿を見る目をしていて、非常に生意気である。調子に乗っている。
 調子に乗った時の彼の憎たらしさは半端ではなく、一瞬その逆立ったような髪を掴んで浴場まで引きずってやりたくなる。
 だがしかし。悔しいかな、彼はそういう扱いに慣れている。酷い接し方をする家庭教師のせいで、手酷く痛めつけられても『酷いじゃないか、リボーンみたいに』とあの腹の立つ台詞を言ってくるので、僕の選択肢は極端に狭められる。
 彼は僕に、他の誰でもない扱いをするべきだ。
「仕方ない。部屋の風呂にでも入るか…」
「あるなら……最初からさっさと入ればいいでしょう」
「うーん、でもめんどい」
「すぐそこでしょうに!」
 見ればガラス戸と網戸がはめ込まれたベランダに露天の湯船、そのまま部屋に引き込む形でシャワーと洗い場が見えている。
 電球の入った提灯がゆらぎのない光で照らしており、御影石の浴槽から今この瞬間もお湯が溢れ出ていた。生きるためにはまったく必要のない贅沢品。
 物質の豊かさで言えば此処は相当に暮らしやすいのだろうけれど。美食に舌鼓をうち、あふれ出る湯に身を沈め、数日の休暇?
 そんなもので彼の疲労は癒せるのだろうか。いっそ、誰もいない砂漠か密林におきざりにした方がいい。彼は怒るかもしれないけど。その方が頭の中をいっぱいにしている『仕事』だの『組織』だのを、綺麗に消してしまえるのじゃないか?
「ほら、行きますよ」
「うーん…」
 ゆるんだ帯を解いてしまって、襟元を寄せて整え、投げ出された足をくるむようにして抱き上げる。
 相変わらずまともに食事をしているのか疑うほどの体重――だが不安になる必要はない、筈だ。自分より余程の量を食らう大食漢でありながら、彼が幾ら食べても太らない体質だというのを再確認。気にする必要はない、と言い聞かせる。大丈夫大丈夫大丈夫。死にそうな顔をしていても、二時間の仮眠で嘘のように元気になる体質。
「手際いいな。お兄ちゃんみたいだ」
「誰が兄ですか。やめてくださいそういうの、僕にまで」
「そういう感じかなっていう、ただの想像だよ。怒ることないだろ」
「怒ってませんけど?」
「すぐ怒る…」
 元気で丈夫で、多分この人が死ぬ時はあっという間だ。そんなまさかで死んでしまう。
 普段元気だから、どれだけ無理をしてもけろりと笑っているから、いざって時ふんばりが利かないに違いない。利用する前に利用されて捨てられそうな予感がする。ああいやだ。
「ちょっと言っただけなのに何、っつか何?! な、なんで泣いてんの」
「泣いてません」
 頬に触れる指が冷たい。夜風に当たりすぎて冷えているじゃないか。
 夏風邪をひいて長引いて忙しいので無理をして気付いた時は手遅れになってしまう。
「そんなに嫌だったか……ごめん」
「だから、違います。ちょっと煙が目に入ってしまって」
「…湯煙で?」
「敏感なんです。こっち特に」
「初めて聞いた。そんな苦労があるのかぁ」
「大変なんですよ僕も」
 浴槽の近くまで来て膝を落とし、片腕で支えながら浴衣を剥いで湯をかける。
 適温に保たれた湯が生白い肌を滑り、ついでに袖も濡らしていく。ピタリと張り付いて気持ち悪い、いや服なんていいのだ。
 彼は湯が触れた一瞬だけあちぃ、と呟いたが、基本的にされるがまま、大人しくしている。本気で動く気が無いらしく、きわどい部分に触れても反応すらしない。
 のど頸、心臓、腹、急所という急所をさらけ出し、目すら閉じて湯のあたたかみを堪能している。警戒はしていない。否、意識していないのかもしれない。
 そっと浴槽の中に横たえると、ちらりと目線を向けて鷹揚に頷く。何様だとムッとする思いと、どうせ深くは考えていないだろうという諦めのようなものが沸き、結局口に出せずに首や、頬に湯をかける。
 満足そうにふー、と息をしている内は良かった。
 だがその身体は徐々に浴槽の中をずり下がっていき、もう少しで鼻の上まで浸かってしまうという段になってもまだ身を起こす気配はない。徹底的に休むと宣言した彼の意地のようなもの。
「死んでしまいますよ」
 放っておけばいいのに手を出さずにはいられず、結局『あーもうアレだ、めんどい、一緒に入ったらいいんじゃないかと思う』という言に誘われて服を脱いだ。仮にも恋人が脱衣をしているというのに彼の無関心さは極限に達していて、当然恥じらいもない。
 湯を浴びて彼の隣に滑り込むと、半分眠ったような声が『風呂上がりったらアイスしかないと思う。アイス』と暗に使いっ走りを要求をしてくる。
 流石に使われっぱなしは面白くないので無視すると、この時ばかりくっついて『冷たいアイスのうた』とやらを歌い出した。ちなみに彼の歌はあまり上手くない。


2012.8.18 up


03.

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