隣人
耳障りな羽音が耳元まで来て不意に消えた。
目の端にチカチカと瞬く光。視界が一瞬揺らぐ。
何かに似ていると思ったが、直ぐに気にならなくなってしまった。古いエレベーターが大げさな音を立てて止まり、今にも外れそうな揺れと共に扉が開く。
目的の部屋はこの階の一番端にある。
不便だし、この向きだと西日があたりまくって午後の部屋は温室みたいに蒸し暑くなるだろう。
鍵はポケットの中、持ち主は下水トンネルに浮かんでいる。街中の排水が集まり、ゴミが堰になっているあの場所。
ゴミ山はビーバーの巣のように盛り上がり、汚れをためて酷い臭いをさせている。住民は皆それについて四六時中文句を言っている癖に、それを芯から取り除いて綺麗にしようとはせず時々下水の入り口に薬をまいて誤魔化している。
地下は薬なんかにまけない、ドブネズミの天国だ。あいつらが死体を綺麗に食ってくれるだろうし、もし身元が割れても『オレは彼の友だち』で済ませられる。何処に行ったかも分からないし、いつ帰ってくるかもわからない、と。
簡単な事だった。
世界は彼にとって酷く単純なものなのだ。
気に入らない奴と、気にもしない奴と、ごく稀にホンモノ。
飢えたことがなく、労働は一度もない。おそらくこれからも。
持ち主が部屋に帰ってくる事はないので、今やそこは彼の自由域だった。
その手前までは別の奴が住んでいる。せせこましい、一般庶民の生活。
彼とは法則の違う者達はいつでもコソコソして小さな声で話した。
大抵はつまらないことだから立ち止まって耳に留める必要はなく、大方は無視してしまえる。
隣の部屋の、扉の内側から物音がした。
ドアが開いて男が顔を出す。コソコソの代名詞みたいな臆病な仕草で外を見回すと、いそいそと出てきて安物の鍵を閉めた。男は服装含めうんざりする程平凡で、覚えている必要は無いと彼の脳は即座に判断し通り過ぎようとした。
「…こんにちは」
男は何か言っていたが、彼は既に別の事を考え何もない宙を見ていた。
新しい部屋は次の獲物が見つかるまでのねぐら。今まで居た部屋は女の部屋だったので、化粧臭いことを我慢すればまあまあ綺麗ではあった。
しかし男は? 暇を持て余し、下品で粗野な連中と付き合いがあり、時々注射のし過ぎでこめかみをピクピクさせているような奴の部屋に期待は出来ない。
(でもぜってー帰らないし、オレ)
それを思って彼は身震いする。
今此処で戻ってあのお上品な部屋に閉じこめられるぐらいなら、道端に野宿の方が千倍はマシだ。
苦々しげに舌打ちすると、彼は鍵を穴に思い切りよく突っ込む。
回し、錠の開くガチャンという音の後思い切ってドアを引く。
案の定真っ黒く塗りつぶされた天井や床――乱雑に散らばった衣類――
鼻が曲がりそうな庶民の生活臭に混じり、ほんの少し嗅ぎ取れるだけの――
ぴくり、と彼のアンテナが反応する。
暗い部屋だが電気は通っていた。彼は狭い部屋を横断し浴室のドアを開け、その痕跡を調べてみた。
「ふん、ふん。オレの気のせいか?」
言いつつも、彼は予感する。
明るい蛍光灯に照らされた台所は、その周囲に腐った食べ物を山と積んでいた。
カビたパン、溶けたレタス。口の開いた缶詰。ひからびた何か。
その中央に埋もれながらぶんぶん唸っている古い冷蔵庫。得体の知れないべたべたで汚れたドアを引くがびくともしない。プラスチックとナイロンのフレームに、金属の錠が打ち付けてある。なんという決定打。
「面倒くせえなあ」
鍵刺しっぱなしの錠を解いてドアを開けると、中にはほぼ思った通りの物が入っていた。
「ふうん…やるじゃん、まあまあ」
膝を抱えた姿勢で、小さく折りたたまれるようにして、あちこち押し込んだ女の死体。
鮮度から言って死後三、四日は経っている。
「なるほどなぁ」
どうりであいつ、怯えきって鬱陶しかったんだ。なりふり構わず、誰かに話したかったのだろう。それなら最初からそう言えば良かったのに。
「オレはまた、アンタが小うるさく喧嘩売ってんのかと思ったんだよ」
女の死体が入ってる部屋に二日居た。
我慢の限界が訪れたのは恐怖でもなんでもなく、臭いだった。
死体の臭いではない。それを見た彼は一番最初に冷たく固まった女の死体を手際よく捌いていき、電気が続く限り一番安全と思われる冷凍庫の中にギチギチに詰めてしまったからだ。
問題は台所に積まれた食料品のなれの果て――
カビと微生物の高貴なる森の事だ。
あんな場所では具合が悪くなると、彼はそこから飛び出した。
それでも良くもった方だろう。
(次のやつ狩らなきゃな)
今度はもっと綺麗好きの奴にしようと思う。ぶんぶん唸る中古家電や新聞も読めない暮らしなんてまっぴらだ。
決意を固めて乱暴に飛び出した、彼はエレベーター手前で蹴躓いた。
「いってえ! なんだよ邪魔…」
「うぅ」
其処に蹲り、唸っている男は見覚えがあった…かろうじて、記憶の底にうっすらと。
二日詰める間も、食料は必要だったから何回か出かけた。その間いつも出口付近やエレベーターで一緒になる、死体の部屋の隣の部屋の男。
「はははっ」
急に可笑しくなる。
こいつは何も知らず住んでいるのだ。
いつの日かあの部屋が――きっと遠くない将来、管理人か警察の手によって暴かれ、死体が日の目を見るその時まで知らず、後できっと吃驚するだろう。ぞっとするかもしれない。
じゃなきゃ、もっと。停電で冷凍庫の電源が切れ、臭いがし始めるまでとか。
いずれにしろ、愉快な事になるのは決定だ。
「おいアンタ、大丈夫かよ?」
その時初めて興味を引かれた。
男は唸りながら何かを押さえている。
「何?」
「指…」
「は?」
「指…はさんだ…っ」
勿論彼は盛大に笑ってやった。
潰れかけたその指を捻り切ってやりたかったし、それを躊躇う必要は無かった。通路には誰の気配もなく、男の視線は床と自分の指にのみ注がれていて限りなく無防備だ。
2008.9.28 up
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