熱海
「まま、一杯」
「どうも」
フラフラヨロヨロと危なっかしく瓶のクチが移動する。
それを追ってグラスを上下左右に動かし、一滴も零さないまま縁ギリギリまで注いだ(注いでもらったという気はしない)ビール。
傍らでは、一部始終固唾を呑んで見守っていた同僚がぶはあと大仰な溜め息を吐いた所だ。
「やれば出来るもんだなぁ」
「なんだよそれ」
アハハ、ワハハとのんきに笑い合っているご両人には悪いが、ビールが無事に注がれたのは自分が手を動かし危険を回避していたからだと思う。
思うが、言わなかった。
冷えたグラスに口を付け、一口飲む。
仕事帰りのこの一杯。確かに、いいものである。
なのでマーモンは、余程の用事が無い限り同僚の誘いを断らないでいた。付き合いが良くなったなどと揶揄されるが、気にはならなかった。
ビールの肴に聞かされるとんでもない失敗談や背中を掻き毟りたくなるほど恥ずかしい話も、慣れれば乙な物だ。
「それで、うん、ちょっと待ってて」
続いてビールを旦那に注ぐ……ことなく置いたツナは、イソイソと隣室へ姿を消した。
傍らではグラスを持ったままちょっと呆然とし、やれやれと頭を振って瓶を掴み、結局手酌で一杯目のスクアーロが至福の表情を浮かべていた。
暗殺集団も、こういう所は一般人とそう変わらない。
「おまたせー」
「うん?」
ツナが手にしているのは包装された平たい箱。
見たところ土産物だったのでそのように伝えると、笑顔でうんうんと頷かれた。
「この間の休み、温泉行ってきたんだー」
「ふむ」
暗殺集団に定休はない。
休みというと、アレか。
その日だけはどうしても外せない用事が、とか言って同僚がもぎ取っていた有給の事だろうか。
ちらりと視線を移動すると、不自然にバッと逸らされた。成る程。
「大事な用事だね」
「言うんじゃねえぞぉ…」
引き攣った顔をしている旦那に気付く事もなく、ツナは正座をし、頭を下げて「つまらないものですが」と箱を差し出してきた。
「これはどうも、ご丁寧に」
「あっはっはっは」
改まった雰囲気は三十秒ももたない。
何故笑うのか見当も付かないまま外箱を見る。其処にははっきりと地名が書かれていたので、まあ聞くまでもないのだが、一応礼儀として――尋ねた。
「何処に行ってきたの?」
「熱海」
「…うん?」
「だから、熱海だよ。ね?」
「ああ。熱海だ」
もう一度、マーモンはまじまじと土産物の外箱の表記を見た。
「熱海?」
「そうだよ」
「なんだ、本当だって。そう書いてあるじゃねえか」
コクコクと頷いているツナとスクアーロに、微妙な面持ちでマーモンは再度尋ね直す。
「熱海…熱……ネツ…ネッカイ? うん、あたみ?」
「アタミ?」
一瞬きょとんとしたツナだったが。
あっと声を上げるなり、思い切り横の旦那の背中をぶっ叩いた。
「何言ってんの、あたみだよ! バカじゃねーのお前恥ずかしいなーもー!」
照れ隠しにばしばしばしと連続で打つそれが、段々と拳になってきている。
「ゲホッ、ゴホゴホゲホッ……なっ、オレかよ?!」
「物知らないなーホント。アー恥ずかしー」
「うえぇっ? おま、お前な、お前こそ、日本人だろうがああああ!!」
「ネッカイだってププッ」
一方的に責められるその姿を見ていると、この夫婦の力関係が見えてくる。
相変わらず尻に敷かれているようだ、哀れな。
2008.10.1
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