冷たい。
 手の先、爪先、ありとあらゆる末端から冷えていく感覚を覚え、少年は身を震わせた。火は赤々と燃えている。だが此処に在る事は、なんと寒い。
 捧げ持ったマントの端が震え落ちかける。慌てて拾い上げ、元の通りに戻す。伏せた目元に影が差し、元々痩せこけて血色の悪い頬が陰鬱に映る。
「くだらねーな」
 に、と笑って振り返る白い頬は血に濡れている。ぽた、ぽたと墜ちる雫が滑らかな腹に落ち、伝い、足先まで幾本も朱の筋を作る。凄惨な光景だった。
 少年は吐き気を堪え、裸の主に服を着せた。
 恭しく跪き、白い布で血を拭い、後に回ってシャツを着せ当然のように差し出された足に裾を通す。染み一つ無い肌。皺一つ無い手。それは、主が凡そ労働というものに着手したことのない証であり、それはこれからもきっと変わらないだろう。
 足下の亡骸には務めて目を向けないようにし、腕を回して腰紐を結ぶ。
 少しきついぐらい強めに締めると、う、と声が降ってきた。抑揚のない、本当に退屈している時の調子だった。
「甘いものが欲しい」
「只今お持ち致します」
「お前は行くなよ。オレを裸で放り出す気?」
 言葉を受け、手早くシャツの前ボタンをはめる。手が震えて手間取る。
 控えていた一人が台所に走る足音がした。
 一人は、何人かの人手を連れてくる。刃渡り10センチほどの小ナイフで裂かれた喉や腹から噴水のように血が吹きこぼれ、床や主の頬を濡らした光景が蘇る。
 思わず。
 せり上がってきた吐き気に堪えきれず、少年は身を屈め口元を抑えた。良い香りのする豪奢な衣服は肌触りが良く、その感触は気持ちの良いものだが、今だけはやたらと吐き気を誘発した。
「無礼なヤツ」
 クスクス笑いが辺りに響き、瞬間的に場が凍ったのを感じた。
 少年は青ざめ、許しも得ず咄嗟に顔を上げる。王子の長い前髪が邪魔で狂気の光を浮かべた双眼は見えず、ただ静かな沈黙があり、頬に添う冷たい刃の感触があった。
「新入り?見ねー顔だし。親に売られでもした?」
「っ……」
「だってそうだろ?オレの世話に寄越されるガキだぜ………ロクな身の上じゃねーよ」

 狂気の王の子は狂気。
 王子は気狂いの、人殺し。
 召使いを殺し、女を殺し、いずれ臣民全てを殺すだろう。

 諸外国にもきこえたこの国の王子の凶行は、そんな不吉な予言と共に始まった。
 そしてそれが本当であることを、国民全てが知っていた。口に出さずとも噂などしなくとも、誰も皆知っていた。
 元々血生臭い歴史を持つ王家の咎を体言したような異常さだからだ。

 王子は双子だったが、幼い折に一人が一人を殺した。
 それも跡目争いや、他に理由があるのならともかく―――
 まるで虫や獣を屠るように幼い王子自らが手を下したのだ。王はそれ以来我が子に異常な怖れを抱き、城から遠く離れた地へ監禁した。

 少年の口から命乞いの言葉は出なかった。
 単にあ、とかう、と意味をなさない音が出たのみで、後はカタカタと震えている。怯えたような茶の瞳が恐怖に潤み、顔色は限界まで青ざめていた。
「聞いてんじゃん。答えな」
「あ………あ、いえ、おれ…」
「声は出るの。そ」
 まあいいや、と軽い調子で吐き捨てる。
 一見無邪気な様子に、初対面の者は騙されそうになる。ふっと息を吐いて警戒を解く、その瞬間が一番危険である事を側付きの者なら誰もが知っていた。
 側付きで―――生き残っている者ならば。

 少年は息を詰めたまま、微動だにしなかった。
 目を逸らせば殺られる、そう直感しているように頑なに動かず、無礼にも主を見据えたまま凍り付いている。平凡な茶色の目がゆっくりと瞬き、睫毛が影を作る。
 平凡な、どちらかというと地味な容姿であるそれが少女めいた雰囲気を漂わせたのはその時だった。元が細く貧弱な体つきは性別を曖昧にし、女の可愛らしさ、容姿や華やかなオーラこそ無いものの、身に纏った哀しみが彼をより一層弱々しく見せた。
「どこの子?」
 質問は少年に向けたものではなかった。
 控えていた一人が平坦な声を張り上げた。
「この近くです。女と一緒に召し上げました。国境近い小さな町です」
「そぉ。じゃ、代わりでいいや」
 ナイフが音を立てて壁に刺さる。
 頬を掠めて行った刃に大きな目を更に見開いた少年は、今度こそ声を無くした。伸びてきた腕が自分を捕らえ、先程まで女が、死骸が転がっていた場所へ押し倒されて頬に生暖かい感触が這った。ぬるぬると舌が這い回り、薄くついた傷を丹念に舐めていく。胸元に手があり、足に触れる手があり、裾を割られた時彼はぐるりと目を回し部屋の入り口を見た。

 召使い達が女の死体を引きずっていく。血の染みごと絨毯が持ち運ばれ、モップと雑巾で丁寧に掃除がされた。乾いた布が最後の一拭きを終えて新しい絨毯が運ばれてきた頃頬の舌は下唇まで移動して、下肢に指が絡んでいた。

 同じ町の、同じ界隈で育った女だった。
 それがもう今は息すらしていないなんて―――

「泣いてんの?」
 目尻を執拗に拭う指は血に汚れている。鼻につく血臭は王子の全身から立ち上り、もはや風呂を使っても落とせないだろう。余りにも、余りにも多くの血が流された。少年は自分の立場も忘れ、国の未来を憂え眉を顰めた。辛かった。自分の無力が。その間中、王子は楽しげな声で囀っていた。だいじょーぶだいじょーぶ。オレ、優しいんだぜ。何も心配いらねーから任せとけって………悪意に塗り固められた嘘だという事は、十分に承知していた。目を閉じ、覚悟の為呟いた。かあさん。

「………は」

 絶望と、けたたましい笑いが降ってきた。


2006.10.11 up


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