アスファルトで舗装された道路はすぐに終わってしまい、更にガタガタの砂利道から、島特有の黒土の地面へと変わった。
 繁殖力旺盛な草が両脇から突き出るように茂り、車が悪路に揺れるとそれがドアに当たる。その都度乾いた音がした。
「悪いな」
「……うん?」
「勝手に決めちまったけど、いいか?」
 小さな島だし、本土から遠すぎて観光業も盛んではない。
 あるのは島民の為の飲食店が数軒。どうしたものかと思っていたから、本心を言えば助かった。
 しかし綱吉の口から出てきたのは、違う言葉だった。
「俺と母さんが御世話になってた家って、此処から遠い?」
「遠くは、ねえな。けどもうずっと人が住んでないからひどいもんだぜ」
 そうだ。母の縁者は全員亡くなっている。
(確か土間があった。大きな屋根の、昔の家だ)
 あやふやだった昔の記憶が少しだけ顔を覗かせる。
 暗い部屋。
 大きくて傷だらけの柱。夏でもひんやりと冷たい空気。
 食事の支度をする母の背中を、離れた場所から見ていた幼い自分。
 特別意地悪なわけじゃないけど――なんとなく、他人行儀な家人。祖母と言うには遠く、叔父と呼ぶが血縁は無い男。
 あの家がまだあるのか。
 じんわりと嫌な気持ちになった。
 別に、あの家で過ごしていた期間、嫌な思いをした覚えはない。
 自分でも何故こんなに心がざわつくのか、理解できないでいる。
 黙り込んでいる綱吉に、気遣ったのかもしれない。
 山本はハンドルを回して唐突に進路を変えた。
「ちょっと行ってみるか」





 記憶の通り、とても大きな家だった。
(遠くから見た時は立派に見えたのに…)
 屋根は一部が崩れ、トタンが錆びている。
 玄関の木戸は腐ってるし、奥はもっと酷い様子だった。
「使える状態じゃないだろ?」
「…ああ」
 勿論山本の言葉を疑っていた訳ではない。
 綱吉は周囲を見渡しながら、少しずつ過去の記憶を取り戻していた。
 庭にあるのは母が物干しに使っていた手作りの竿。ひとかたまりで植えてある菖蒲。
 あれを刈って風呂に入れた。薪で沸かす昔の風呂だった。
「ツナ?」
 それは単に懐かしいという感情だけでなく、知らねばならないというような――焦りにも似た感覚であり。
 突き動かされるように綱吉は半分崩れかけた入り口を潜る。
「危ねえって」
「うん、ちょっとだけ」
(思ったより明るい)
 落ちた屋根があった場所から光が差し込んでいるのだ。
 土間に置かれた古いかまどや、天井からつり下げられた鈎があり、ああこんな感じだったかなと思う。
 囲炉裏にはまだ灰が残っている。
 はっきりとした確信ではないが。
(見覚えがある……やっぱり俺、此処に住んでたのか)

 島に来る前から、あの電話を受けた時からずっと感じていた違和感。
 近所の子と遊んだ記憶や、母との時間は幸せな記憶であっていい筈なのに。
(ここ、嫌いだ)
 ずっと見たくなかった。来たくなかった。
 母も決して島の話はしなかった。不在が多い父を慕う言葉、ぼんやりしている自分を心配する言葉。そういうものは良く口にしていたが、故郷の話はまったく――
「…!」
 ぐらりときた。
 倒れかけた綱吉を支えたのは、かろうじて残っている土間から床への段差だった。
 埃臭い床に額をつけながら、気分の悪さに耐える。
 長身を屈めるようにして入ってきた山本が、慌てて手を伸ばすのが見えた。



「大丈夫か?」
「うん」
 冷たい水で濡れたタオルが頭の上に乗っている。
 車に入ると安心する。暑い車内は不快だが、外よりはずっとマシだった。
「埃だらけであんまり空気のいい所じゃないからな」
 何も言わず、何も聞かず抱えて外へ連れ出してくれた。
 親切だし、気のいい奴だ。
 しかし警戒する気持ちや疑念は、彼に対しても晴れなかった。
 山本は島の人間なのだ。
 時折当たり障りの無い言葉を口にしながらも、静かに、用心深く自分を見ている。
(考え過ぎかな…)
 島に着いてからずっと落ち着かない。そのせいかもしれない。
 ばつの悪さを隠す為に、無理矢理起き上がった。
「おい無理すんな」
「平気。大分良くなった」
「ならいいけど」
 屈託無く笑うその顔を見ていると、全部気のせいのようにも思えてくる。
「冷たい。気持ちいい。よく水なんてあったね」
「裏に井戸があるだろ? まだ使えるんだな。薄っぺらい蓋一枚だから、埋めちまったほうがいいかもしれねーけど」
 危ないだろうと続く言葉の途中で、綱吉は唐突に車から飛び出した。
「ツナ? どうした!」

 そうだ井戸があった。
 大きな、大きな井戸だ。
 丸く開けられた穴から風が吹いてきて、目が痛かった。底は真っ暗だし。
(危ないから一人で行っちゃ駄目よ――)
 母の言葉に従い、一人では決して近付かなかった筈。
 でもあの暗い淵を、覗き込んだ記憶がある。暗く、濡れて、ごつごつとした岩肌の――
「なあ」
 綱吉はぐっと息を飲み込み、恐る恐る奥を覗いた。
 すぐ背後で支えている腕がある。
 だから安心して深くまで体を傾け、ずっと下の水面まで見えた。
「いきなりどうしたよ?」
「……ごめん。違った」
「え?」
「なんでもない。俺の記憶違い」



 記憶の中の暗くて怖い井戸は、この場所にはない。
(それとも子供だから大きく見えたのか?)
 曖昧な記憶が、そこだけは妙に頑固だった。
 あれは絶対に違うと確信めいたものがある。恐ろしさを感じる程、あの井戸は大きくなかったのだ。
「ごめん。やっぱり、何も無かった」
「うん? まあ……じゃ、帰るか」


2010.4.22 up


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