多分、焦る方がおかしい。
 さっきまでざわざわと雑多な気配で溢れていた場所が、そこだけ切り取ったように音が消える。
 そのように感じた。
 実際は話し声も風で庭木の葉が擦れる音も続いていて、ああ錯覚だったんだと安堵すると同時、視界を塞がれて何も見えない。
 どうしたらいいのだろう。シャツの粗い目地しか見えない。
「久しぶり」
 綱吉は束の間息を止め、目を限界まで見開いたがそろそろと腕を伸ばす。
 記憶の中のものよりしっかりした背中に触れ、力は入れず、ギリギリ了承を示す緩い抱擁を返す。
「うん、ホントに」
 背中が痛い。息が詰まるほど強い力を込められているせいだ。
 何百回、何千回と繰り返し思い出している同じ場面が記憶の底から沸き上がり、恐ろしさに叫び出したくなる。違う、違うんだそれ間違ってるってと誰に向けるでもなく言い訳が始まり、問われても口に出せる訳はないから結局項垂れて黙り込むしかない。
『どうしたの』『心配事でも?』『ぼーっとなんかして』言い方は様々だが全部一つの事を表している。


 何か違う事考えてるみたい。


 その通りなのだ。
 そして今、違う事じゃなく、正真正銘の当人を前にして逃げ道が無い。苦しい。
 頭の中はそれ一色だ。
「元気か?」
 綱吉は頷き、引き攣った笑いを浮かべた。声が出なかった。
 身長差があるせいで足が地に着いてないし、殆ど抱き上げられている。
 自分も腕を回しているせいで、サルの子供みたいにしがみついているようにも見えるだろう。
 しかし自分から離すのは躊躇われた。
 どうしたものかと内心ジリジリ焦っていると、庭に出てくる複数の気配と笑い声がする。
 場の均衡は打ち破られ、気まずさや焦りを顔に出さずに抱擁を解き振り返る事が出来た。笑みさえ浮かべていられた。大人になるってこういうことか。
 からかい混じりに話しかけてくる元同窓生に、揃って再会を喜ぶ言葉を重ねる。
 へらへらとバカみたいに笑って、その間も後ろに引き摺られた右腕を、ぎゅうと握られて頭が真っ白になる。
「仲いいよなぁ」
 掴まれた腕をくるりと回され、正面で視線が合う。
 テレビで見るのと寸分変わらない笑顔で山本は其処に立っていた。
 逆に現実感が薄まり、幾分かほっとして笑顔を返す。引き攣っていなければいいのだが。
「何やってんのお前ら」
「んー…」
 手を繋いでいるのを、つっこまれてギクリとした綱吉とは対照的に山本は堂々としたもので。
「ちゃんと食ってんのかなって」
 ぶらり、と下げられた腕に視線が集まる。
 綱吉はへらりと笑ってみせるしかない。
「ほんとだな」
 それは俺も思っただの、やれ顔色が悪い、いや面が悪いとあらゆる方向から遠慮のないことを言われ、綱吉は気が抜けてぐったりしてしまった。



 こんな調子では、とても帰りまで持つ気がしない。
 場所を変え、会場に入っても、席に座ってからも、さりげなく退路を断たれていて逃げられない。
 その上もう顔を出したのだから良いだろう、頃合いを見て抜けようと思っても、入れ替わり立ち替わり話しかけられてしまう。
 何故かと思ったら隣に山本が居るせいなのだ。昔と同じである。
 ついでのように話しかけられ、その度につまらない近況を繰り返す。

 幾度目かの『山本参り』で、綱吉は彼の近況を知った。
 特種な職業で、かなり人の目も気にしなければならない、注目度の高いプロのスポーツ選手――綱吉なら、変に気にしてしまって聞き難い事も学友達はぽんぽん気軽に尋ねていた。
 山本も特に気にするでもなく、さくさくと答えていく。気にしている自分の方がおかしいのだろうかと思い始めた時、質問は俄然プライベートな物になってきた。
「奥さん? 今調停中」
 ぎくりとしてしまう。
 尋ねた当人も一瞬驚いた顔を見せたが「そうなんだ」と毒にも薬にもならないフツーの反応を返している。
「そうだな。もう一年くらいになるかなー」
「長っ…大変だなあ、お前も」
「別に。人に任せてあるから」
「メシとかどうしてるんだよ?」
 思わず、隣をちらりと見てしまう。
 離婚してからの綱吉は、やっぱり少し痩せた。
 食事が変わったからだろう。一時期店屋物ばかり食べていたら胃を壊すし、散々だった。
 今は観念して自炊しているが、味の方は決して美味とは言えない。妻の偉大さを思い知るのはこういうところである。
 椅子にゆったりと腰掛け、グラスをあおっている山本の体つきは当然――一般人の綱吉とは比べものにならない。
 学生時代もよく鍛えられた体をしていたが、大人になった今は身長だけでなく、体の厚みも増して全体的に大きくなった。
 威圧感さえ感じた程だ。
「面倒見てくれる奴がいるから」
 なるほど、と綱吉は納得した。そうだろう、山本だし。
 相手もニヤニヤ笑って頷いているが、山本は至極真面目な顔で首を振ってみせる。
「向こうで店開いている親父の知り合いがいる。やっぱこっちのメシのが体には、合うんだよなあ…」
「まさかそれが原因じゃないだろ?」
 もういい加減にしろよと、言ってやりたいのに言葉が喉に張り付いて出てこない。
 気まずい思いを抱えた綱吉の前で、山本は周囲に請われるまま自分のプライベートを暴露し続けていた。事実記者に聞かれたら即日新聞ネタになりそうな話ばかりで、聞いた方が戸惑っていたくらいだ。
 こういう開けた所が山本の良いところではあるけれど。
「まさか。それに、奥さんは俺にメシなんか作ったこと一度も無いぜ」
「そうなのか?!」
「向こうも仕事があるし。家の事はハウスキーパーとかに頼んでたみたいだけど」
「へ、へえ」
 其処で初めて、相手は違いを意識したのだろう。
 急に態度がぎこちなくなり、「ごめんな、色々聞いちゃって」と謝っていたが今更である。
「気にすんなよ。まあ、なんとなくな」
 にっこりと笑うその笑顔は学生の頃と変わりない。
 変わらないからこそ、落ち着かない。自分に向けられたものではないそれにまで、綱吉は慌てて目線を逸らしグラスに口を付ける。
「そういや沢田も奥さんに逃げられたとか行ってなかったか」
「ぶっ」
 話題逃れにこっちに話を向けるのは止めて欲しい。
 そもそも、逃げられた訳じゃない。絵に描いたような円満離婚だったのだ。
「その逃げられたっていうのは止めてくれ」
「逃げたの?」
「…だから。別にそういうんじゃなくて…」
 どういうものだったか。
 言葉を切って、少し考える。思い出そうとしてみる。
「……なんとなく」
「お前もかよ」
 現在三人もの子持ちである元学友に呆れたように言われ、思わず顔を見合わせる。
 山本は悪戯っぽく笑い、綱吉が気まずさを感じる前に視線を逸らした。


2008.6.5 up


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